2006年5月28日

「信仰は、わたしの持ち物でなく」 マルコ10:17〜22

 着実に良い教会形式を進めておられる小田先生が体調勝れない事を伺い、教会の方々が一つの思いで一致して、教会の働きを担っておられる中で、私のような者をその一端に加えて頂いたこと感謝です。み言葉に向かいあって礼拝ができますこと感謝です。

 私たちイエスキリストの十字架と復活のあがないを信じて信仰者の生活を生きる者達が、毎週教会に集まるのは神を礼拝するためであります。そういう意味で、私たちは「礼拝の民」といえます。私たちが、神を礼拝する以前の生活は、自分を省みて分かるように「神もなく、希望のない者」(エペソ2章12節)でした。そのような者を救い、神を礼拝する者とさせて下さったのは、私の待つ、何か救い与れる行い、知識、持ち物ではなく、ただ、主イエスを救い主と信じる信仰のみであるのです。

 そのわたしの信じる信仰さえも、私の、自分の内から出たもので捉える信仰ではなく、「神から与えられる信仰」だと聖書は云います。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるものであり、それはあなた方自身からでたものではない。神の賜物である」(エペソ2章8節)。

 私たちの信仰は、私が信じることで、私のものであるはずと考えると信仰は、私は、あの人より、たくさん信仰がある、私はない、とその互いの所有する持ち物の比較で、信仰生活をしながら、信仰の多寡で悩むことになる。今朝聞いた主イエスさまの金持ちの男の話し、マルコ10章17〜22節は、人に誇れる律法の遵守、これさえ持っていればといえる多くさんの財産で肩を張りました。律法を守ること、多くの財産を持つことが悪いのではないのです。その自分の持ち物と信仰とは同列に語れないのだという事を云われたのです。

 私たちは宗教と云えばどれも、みな同じだと考え、キリスト教も宗教の一つと思っています。宗派の教えであれば、その宗派の教えを身につけ資格を取ればいいのです。そこにもまた、比較が云われるのです。キリスト教は、教えではないのです。キリスト教という教えで救われるのではなく、キリストを救い主と信じる信仰で救われるのです。そして、その信仰は、「わたしが信じたぞ、」と、信仰を「私の持ち物」とさせないで、信仰はただ「神の賜もの」上から来るものと云いました。この事は、第2礼拝では申し上げなかったですが、ガラテヤ3章23節でパウロは「信仰が現れる前には、」と書いています。この「現れる」と言う言葉の元の意味は「来る」です。信仰が私たちに「来る」のです。決して私の中から信仰が出るのでなく、ただ、神さまから来るのです。それを信じて受けるのです。信ずるのは、私どものどこで信ずるかというと、それはやはり、頭脳、脳であるのではないか、その信仰を病気などで意識を失った方々は、どこで信じるのか、そういう問いを問うた人があります。

 津田塾大英文学教授山崎孝子先生著「試みの夜は明けて」−脳腫瘍体験者の心の記録−の中で、人はどこで信じるのか、少なくとも手足ではない。肺でも心臓でも胃でもない。それはまさに脳髄ではなかろうか。クリスチャン著者の問いは、又、私どもへの問いでもあるでしょう。

 しかし、私たちの神はそういう人間の側の一切の問いを超えて、神は私を知られる。ガラテヤ4章9節、詩編139編1節「主よ、あなたはわたしを探り、私を知りつくされました」と。私が神を知り分かるなどということではなく、神さまが、上から、私を知りつくされて、その神を信じて生きること、その信仰も目の前の小さなことで、右往左往してしまう、わたしの持つ信仰ではなく、揺るがない信仰、苦難の場所でしっかり立てる信仰は、間違っても私の持つ信仰ではないはずであります。神さまからの信仰を生きる者でありたのです。(牧野_伊 牧師)