2006年5月14日

「確かな人生」 ルカ6:46−49

 私たちは強いようで弱い、社会に流され、回りに流され、つまらない事で悩んでみたり、思い煩ったりする者です。自分は自分と思いつつも、ついつい他人と自分を比較してしまったりもする、そういう中で私たちが人や社会に左右されず、人生に対して確信を持って生きる事が出来たら、とても素晴らしい事だと思います。

 しかし、それが自信過剰であったりするとむしろ危険です。そこでイエス様は、確かな人生について教える為に、家を建てた二人の人の譬えを持って話されました。二人の人が同じような家を同じような材料を用いて建てました。外見は一緒で、両方ともしっかりと建っている、ところが激しい洪水に襲われたとき、一方は見るも無残に壊れてしまい、他方はびくともしなかった。
 さて、どこに原因があったのでしょう。一人の人は「砂の上に家を建てた」もう一人は「岩の上に自分の家を建てた」 私たちが人生にどれだけ確信を持つ事が出来るかは、ひとえにどれくらい確かな人生の土台を持っているかという事になります。

 さてイエス様はこのことを誰に言われたのか、今日の聖書の箇所を良く見てみますとイエス様は次のように言われます。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、何故わたしの言うことを行なわないのか、私のもとに来て、私の言葉を聞き、それを行なう人は皆、どんな人に似ているかを示そう」私たちも「主よ、主よ」と呼びます。また教会に来て御言葉を聞きます。ということは今日ここに集われた一人一人に語られている言葉だということが分かります。このように主よと呼び、御言葉に耳を傾けていているだけでは洪水が襲ったとき倒れてしまうと警告をして下さっています。

 さて、私たちは大切なところを見落としてしまっているのです。それはイエス様が最初に言われた中で「なぜ、わたしの言うことを行わないのか」であります。わたしの言葉を聞き、それを行う人とありますが、それはどういう人か「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので揺り動かすことが出来なかった」

 その逆に、私の話を聴いても行なわない者は「川の水が押し寄せると家はたちまち壊れ、その壊れ方がひどかった」それでは私たちがイエス様の言われる事を行う為には、どのようにしたら良いのでしょうか?今日の例えにあるように、岩の上に家を建てるには、まず土を深く掘って岩盤を露出され、その上に土台を築かねばなりません。同じように、私たちが人生を神の上に築く為には、自分を掘り下げてみる事です。私たちは今、この世界の創造者であり、私たちの創り主である神様の言葉に耳を澄まして聞かなければならない、それは「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」世というのは私たち一人一人の事です。そして私たちが最も安らぐのは、神から愛されている事を知った時であります。その愛の中にある時、私たちの人生がどんなに洪水に見舞われることがあっても倒れる事はありません。神の愛を信じて生きる者は、目の前が真っ暗になる時も決して絶望する事はないのです。自分が神に赦され、必要とされ、期待され、生きていくところに恐れることのない、確かな人生を歩むことが出来るのです。

 イエス様が言われた「わたしの言葉を聞いて、それを行う人」とは神を愛するように隣人を愛するという事です。これが私たちに与えられた神の掟なのです。土を深く掘って岩盤までたどりつくまでは苦労も多く、また忍耐が必要になります。隣人を愛することは苦労も多く忍耐も必要になります。でも、それを実行する事です。私たちがまず行なうこと、それは隣人を愛する事なのです。