2006年5月7日

「まっすぐな道」 マルコによる福音書1:1〜8

 私たちは、人生を長い一本の道にたとえることがあります。道というのは、曲がっているよりも、まっすぐな方がいいに決まっています。まっすぐ、イコール正しい。曲がった、イコール間違い。それが一般的なイメージでしょう。しかし、私たちは本当にまっすぐ歩くことができるでしょうか?

 燃え尽き症候群というものがあります。一生懸命ひとつのことに打ち込んできた人が、ある日突然、すべてのやる気を失ってしまうというものです。元は仕事でよく見られる症状でしたが、受験勉強の子供たちや、家事や子育てのお母さんたちの間でも増えてきていると聞きます。

 この燃え尽き症候群には、物事を一生懸命にやろうやろうとする、まじめな人がなりやすいと言われます。様々なものを我慢し、欲求を自分の意志で抑え付けて、一つの目標に、まっすぐ向かおうとする人が、突然落ち込んでしまう穴なのです。自分で道をまっすぐにしよう、まっすぐにしようとする人がなってしまうのです。

 私たちは、この世で生きる限り、様々なものに目を奪われ、時間を割かれます。あなたにとって、今の生活で大切なものはなんですか?五つ挙げてくださいと言われたらどうでしょうか?家族、仕事、お金、友人、恋人、ペット・・様々なものが挙げられるでしょう。それを三つに絞り、さらに二つ、一つと絞って行ったら、何が残りますか?神様、イエス様はその中に入っていますか?

 信仰に対して、あまりにまっすぐに生きなければ、と思っている人は、やはりどこかで息切れをしてしまうこともあるかもしれません。私たちには、生きていく中で、様々な大切なもの、好きなことがあるものです。それを、無理やり抑え付け続ければ、燃え尽きてしまう方もいるでしょう。

 はじめに挙げた五つの中に、たとえ神様、イエス様を挙げることができなかったとしても、では一番大切なものは?と問われた時に、「やっぱり神様です」「イエス様です」と答えることができるのなら、それでいいのだと思うのです。

 人間は、自分の力では、まっすぐ歩くことはできません。山道でも、海でも、コンパスがないと、決してまっすぐは歩けないのです。まっすぐ歩いているつもりでも、必ず曲がっているのです。

 聖書中、最高の伝道者であるパウロも、「自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしてしまう」「善をなそうとしても、それを実行できない」と言っています。自分の力では、まっすぐ歩けないのだと告白しているのです。

 しかし、ついつい、私たちは自分で道をまっすぐにしようと思ってしまいます。まじめな人ほど、自分の力でまっすぐに歩こうと思って、無理をしてしまうのです。

 では、私たちはどうすればいいのでしょうか?まっすぐ歩くことは不可能なのでしょうか?いいえ、そうではありません。

神様は、ヨハネに命じました。「主の道筋を整え、その道をまっすぐにせよ」ヨハネはその通りにしました。そして、ついにイエス様にバプテスマを施し、そのイエス様が、聖霊によるバプテスマをすべての人に施してくださる方になったのです。

実は、神様が、イエス様が、すでに道をまっすぐにしてくださっていたのです。私たちは、その神様が敷いてくれたまっすぐな道を、イエス様というコンパスを持って歩いて行けばいいのです。

 日常の中で、この世的な忙しさや、肉の楽しみに、神様を忘れてしまう時もあるかもしれません。それも、仕方のないことです。ただ、そのときに、ふと「一番大切なものは・・」という問いに立ち返って、イエス様というコンパスを見つめてみましょう。

その恵みのコンパスが示す道を進めば、自然に道はまっすぐに戻っていくのです。