2006年4月30日

「さあ、勇気を出して」 ヨハネ5:1−9

 エルサレムにベトザタという池がありました。その池の周りには病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など病を持った人々がいつも横たわっていました。ベトザタとは恵みの家という意味があり、そのべトザタの池の水が動く時に、一番最初に飛び込んだ人は病が癒されるという言い伝えがあり、自分こそは、その神の恵みに預かりたいという願いを持って、その池の周りに人々が集まり、いつ動くとも分からない池を毎日眺めていたのです。

 そこに38年間、病気で苦しんでいる人がいました。彼は、来る日も来る日もべトザタの池に来て、水の動くのを待ち望んでいました。そして1年が過ぎ10年が過ぎ、とうとう38年という月日が流れてしまいました。イエス様はそんな彼に「良くなりたいか」と言われました。ある意味、この呼びかけは残酷な問であります。38年間癒されたいと願いつつも癒されない彼と、その彼を支える家族を思うと急所をえぐるような問いではないでしょうか。

 そのイエス様の問いに彼は「主よ水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです。」と言った。この悲観的な言葉がどれほど彼を絶望の中に置いていたか、もはや自分には癒される機会はなく、また誰も助けてはくれないという、自分に対しても隣人に対しても絶望感の中にあったのです。イエス様から「良くなりたいか」と聞かれ「ハイ」と答えられない、この絶望の中に安住してしまっている姿、イエス様が見出したのはそのような人であったのです。イエス様が問われた「良くないたいか」は真剣に良くなりたいか、救われたいか、新しい命に預かりたいか、という問いであります。

 イエス様は私たちが自分のことを心配する以上に私たちを心配をして下さっているのです。そしてイエス様は「起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい。」と言われました。弱い彼には、そんな重荷を背負って歩むことなど出来ません。また勇気もないし、自信もない、力もない。しかし彼は勇気を持ってイエス様の招きに応えたのです。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」イエス様の「良くなりたいか」の問いかけは、私たちに信仰による決断を求められているのです。信仰による決断とは、この世のむなしい空回りの人生から神の恵みに心を向けて、その中に飛び込むことを決心する事です。昨日までの過去に悩まされたり、現在の弱さを恐れる事なく、これからの自分の人生を神に委ねる事なのです。そして「起き上がり、床を担いで歩きなさい」の一歩を信じて踏み出すことです。

 信仰生活も何年かすると、それほど驚く事もなくなり、今日もまたそうであろうというふうに、神の力を見て行こうとしなくなってしまう。また神に深い期待をかけていこともしない信仰態度というものになってしまう危険性があると思います。私たちはせっかく神の恵みの家に来ておりながら、あまり神に期待を持たないで、ただ気休めにそこに座っているのかも知れません。38年病を負った彼はベトサダの池に来ていたが、一向に変わりがないという現実に捕らわれ、気が付くと足を踏み出す事ができなくなっていた。しかし、イエス様の「良くなりたいか」「立って歩け」との御言葉を信仰を持って受けたとき、新しい一歩を踏み出す事が出来たのです。

 もう一度私たちは、自分自身を振り返って見る必要があるのではないでしょうか。もしかすると恵みの家という教会に何も期待しないで来ているだけではないでしょうか。イエスはそういう人に対して、しっかりと信仰を持って歩けと言われるのです。