2006年4月23日

「神様の季節」 ルカによる福音書2:1〜7

 学校で畑をやり始めました。きっかけは膨大な落ち葉を集めて、堆肥作りをしたことです。そうして畑で野菜を作り始めると、次々に雑草が生えてきて、その雑草を見る中で季節の変化をとても強く感じるようになりました。

さて、きょうの聖書の箇所ですが、イエス様が誕生されるクリスマスの場面の箇所で、クリスマスからはかなり日にちがたった今は、ちょっと季節はずれな感じがしてしまうでしょうか。

 部屋はないが、馬小屋ならあると言われたヨセフとマリアは、馬小屋でイエス様の誕生を迎えることとなります。

 馬小屋で出産とは、何と夢のあることだと思う人がいるかもしれません。

 しかし、家畜小屋に入ったことがありますか?馬小屋、牛小屋、豚小屋、鶏小屋・・・

 どこもみなとても臭く、そして虫もいっぱいるとても不潔なところです。イエス様は飼い葉桶に布にくるまれて・・・とありますが、その飼い葉桶は、直前まで馬があの長い顔を突っ込んで使っていたものなのです。

 今の私たちの衛生観念からしたら、考えられない場所でイエスは生まれたのです。それは何の為ですか?

 この後、私たち一人一人の罪の身代わりとして、十字架にかかって死ぬためにです。

 私たちは救い主という言葉に、少なくともあるイメージをわかせるものです。すごいパワーとか、決断力とか、強いリーダーシップのようなものを・・・。

 救い主に私たちは求めます。病気で苦しいから、すぐ直して欲しい、経済的に苦しいから、もう少しお金が欲しい、家が手狭だから、もう少し大きい家が欲しい、私の取り巻く環境は悪すぎるから、何とかして欲しい、悪い人がのさばっているから、懲らしめて欲しい、悪い国の指導者達をやつけて欲しい・・・私たちは神様に、切実な願いから、段々自分の都合の良いことだけを願うようになってきてしまうことがあるのではないでしょうか。

 しかし、神様はこのような実に恵まれない状況で、救い主といわれる御子を与えて下さって、やがてその御子はパワーを発揮して革命を起こすことも無く、軍隊を呼び集めて、ローマ軍を打ち負かすこともなく十字架にかかって私たちの罪の身代わりになられたのです。

 あのように汚いところで生まれて、あのようにむごい十字架で死なれた。そこには、パワーも、かっこよさのみじんもありません。

 しかし、私たちは先週イースターを迎えました。十字架にかかって三日後に、イエス様は復活されました。「たとえ死んでも生きる」という確信を私たちに与えられたのです。これはもう、考えられないパワーであります。私たちがどんなに苦しいときにも、どんなひどい状況にも平安でいることが出来るのは、この復活の信仰を与えられたからであります。

 平安というものは、私たちにとって何物にも代え難い素晴らしいものであります。私たちは、どんなに富んでいても、どんなに恵まれた状況にあったとしても、平安でない毎日ならそれはとても辛いものです。

 御子を与えて下さった、この愛はあまりにも大きすぎて、私達には全部を見ることができません。丈の高いトウモロコシの大きな畑の中に迷い込んだようなものであります。自分の周りにたくさんのトウモロコシがあることはわかりますが、この畑の全体がどれくらいの大きさで、このトウモロコシは全部で何本あるかなどとは、全くわかりません。

 そうした大きな神様の愛の中に私たちはいるのであります。

 神様は、爽やかな春だから、日差しの強い夏だから、ちょっと寂しげな秋だから、凍てつく寒さの冬だから・・・ではなく、いつも愛を与えて下さいます。神様に季節はずれはないのです。春夏秋冬、神様の愛は私達に常に注がれているのであり、いつも神様の季節なのです。