2006年4月16日

「主は今生きておられる」 ヨハネ福音書20:24〜29

 「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ローマ4:25)」

 死人の復活、何と非現実的なことでしょう。それを信じることがクリスチャンの信仰の原点だとすれば世の人々がキリスト教を理解できないのはむしろ当然のことだと言えます。伝道者パウロはギリシャのアテネにおいてエルサレムで起きたイエス・キリストの十字架と復活の出来事をのべ伝えました。復活という非現実的なことに対する人々の反応は様々でした。ある人たちはあざ笑い、ある人々は「その事はまた今度聞くことにする」と先延ばしの無関心を装いました。しかし、中には議員や女性たち信じる者もいました。現代に生きる私たちも非現実的なことを軽んじる傾向があります。しかし、そんな私たちも生活の中では、過去に起きた取り返しのきかないことに悩み、将来起きるかもしれないことを心配しながら生きています。実際には非現実である過去や未来のことをあたかも今の自分に起きていることのように考え、反応して生きているのです。ただ、私たちが一様に知っている紛れも無い事実は、人生には喜びもさることながら悩み苦しみ、悲しみがあること、人生の最後には「死」が待っているということです。だからこそ私たちが願う非現実的なことがあります。それは、人は死んで終わりではなく死後の世界があり、存在していたいという願いです。輪廻思想や転生と言った考えは人の切なる願いを反映したものだと言えます。しかし、聖書はその問題を現実的に取り扱います。

 主イエスは十字架の死の後、聖書でも預言された通り、復活し弟子たちの前に現れました。それまで弟子たちは復活が現実に起るとは思ってもいませんでした。彼らはイエスの一派として訴えられるのを恐れ、部屋の鍵をかけて隠れていました。そこに復活のイエスは現れました。「あなたがたに平安があるように」とのイエスさまの言葉は「喜べ」という意味でもあります。悲しみと絶望に沈んでいた弟子たちに、喜びの保証が与えられたのです。第二にイエスは彼らに「使命」を与えられました。生きていく希望と目的です。どんな人にもどんな人生にも現実に存在する神と神の愛とを伝えていく使命が与えられたのです。そして、新しい命が聖霊によって与えられました。それは霊的な新しい創造のわざです。最初の人アダムが土のちりから形造られその鼻に神の命の息が入れられたとき人は生きるものとなったと創世記にあるように、主イエスは信じる者に霊の命の息を与えられたのです。その印は「赦す」ことです。主イエスの十字架においては赦されない罪はありません。聖霊を注がれた者は神に赦されたことを悟り、他者をも赦す力を与えられたのです。

 トマスはその場にいませんでした。福音書を読む私たちもまたその場にいませんでした。彼は私たちと同じ合理的で現実的な理性の人でした。しかし、同時に彼は私たちと同じように「死ねば終わり」という現実を受け入れたくない人だったのではないでしょうか?イエスの教えと甦りを本当は信じたかったのだと思います。そんな迷い戸惑う彼に主イエスは言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」復活は私たちが本当に願っているものを現実のものとする神の恵みの福音です。