2006年4月9日

「誰がイエスを十字架に付けたのか」 ルカ23:6−12

 私たちの罪の赦しは、イエス様の十字架という大きな犠牲の愛によって成り立っている事を受難週にあたって今一度、心に刻みたいと思います。私が教会に行き始めた頃、説教の中で牧師から、あなた方がイエス様を十字架に付けたのだと言われて、二千年前の話をされても、私には関係ないと思い、少々腹立たしくなりました。しかし教会生活を続けて行く中で、イエス様が私の為に十字架に付いて下さった事は何となく分かってきましたが、イエス様を十字架に追いやり、十字架に付けたのが自分だとは分かるのに多くの時間がかかりました。口には出しませんが、その時の私と同じような気持ちの方がいるんではないでしょうか。? 

 そこで今日はイエス様の十字架に深く関わった3人を見て、その中からメッセージを受け取って頂きたいと思います。3人の名前は1、ユダ(イエス様の弟子) 2、ピラト(ローマの総督でユダヤを任されていた人) 3、ヘロデ(ユダヤの王様でヨハネを処刑にした人)

 彼らは普段敵対している者同士で仲が良くありませんでしたが、ある事で一致したものがありました。それはイエス様が邪魔になり必要なくなった事です。さて弟子のユダはいつかイエス様がユダヤの王となって、ローマ軍と戦う事を願っていました。しかしイエス様はいつまでたっても行動を起こさず、「隣人を愛しなさい」「赦しなさい」などと語りました。ユダは怒り最後の行動に出たのです。それはイエス様を敵に渡す事でした。イエス様は自分を救うためには戦いという行動に出ざるを得ないようにしたのです。ユダは最後の最後までイエス様が自分の思った通りの人であってほしいと望んだのです。イエス様と共に歩んだのは、自分の計画や望みを実現させるためであって、心からイエス様に従うためではありませんでした。ユダにとってイエス様はもう必要なくなったのです。次にピラトはイエス様に何の罪も見出せず釈放しようとしましたが、しかし群集の声に押され、自分の地位確保の為にイエス様を十字架へ追いやりました。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」

 使徒5:29と言う御言葉がありますが、ピラトは人間に従ったのです。最後のヘロデはどうであったか?8節には「イエスを見ると非常に喜んだ、と言うのはイエスの噂を聞いて以前から会いたいと思っていたし、何かしるしを行なうのを見たいと望んでいた。」私たちも神様がいるならその力(奇跡やしるし)を見たいと思います。特に自分や愛する家族が病気であった場合、それを治してほしいと願います。苦しみや悲しみのある人はその根底にある問題を取り去ってほしいと望むのです、ヘロデと同じようにしるしや行いの結果のみを見たいと思ってしまう。しかしイエス様はヘロデの問いに対して「何もお答えにならなかった」何故でしょうか?ヘロデの態度は、王の椅子に腰掛けて、イエスよ、何か奇跡をやって見よ、という見物以外の何ものでもなかった。自分が何も関わろうとしない、神様がいるなら奇跡を見せてほしい、このような見物信仰はイエスを沈黙させるしかなかった。そこでヘロデも自分の問いに対して何も答えず、また何の役に立たないイエスなど必要ないと思ったのです。私たちも彼らと同じように「イエス様を自分の思った通りの人であってほしいと望んでいないでしょうか」「神様よりも人の声に従っていないでしょうか」「奇跡やしるしだけを見たいと望んでいないでしょうか」イエス様はこのような思いを持った人々によって十字架につけられたのです。

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」マルコ8:36 また「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」8:34得ようとする事ばかりではなく、捨てることだとイエス様は言われます。この受難週にあたり、自分の信仰はどうでしょうか? 考えてみたいものです。「神は私たちに必要なものは全て御存知であると言われます。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」マタイ6:33 主の約束を信じましょう。