2006年3月26日

「先取りの信仰」 ローマ人の信徒への手紙15:1〜3

 “わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。”

 祈りにも成長があるとするならば、成熟した祈りとは祈ったことが既に叶えられたと信じ賛美と感謝を献げる祈りということができます。比喩的に言う「領収書的祈り」です。しかし、現実は中々そうはいかず「請求書的祈り」、いわゆるお願いの祈りになってしまうものです。同じように教会の共同体を成長という観点で見るなら、成熟した教会の群れとは「先取りの信仰」を持つ人々が増えていく教会だと言うことができます。ヘブル書は「信仰とは、臨んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(11:1)」と言いますが、信仰とはある意味、祈りや願いの答えを既に受けたと信じるところから始まると言う事ができます。そこで、恵みを先取りする信仰という意味について二つのことが言えると思います。第一に、勝利の視点で物事を見るということです。パウロは「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである(1コリ15:57)」ヨハネも「すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そしてわたしたちの信仰こそ世に勝たしめた勝利の力である。(1ヨハ5:4)」と言いました。それだけでなく究極の勝利、死への勝利をパウロは宣言しました。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。(1コリ15:54)」イエスさまの十字架による救いの福音は、信じる者に既に魂の勝利を与えているのです。第二に、先取りの信仰に生きることは福音の約束に生きることを意味します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)」とある通り、信じる者にはさまざまな出来事を判断するために永遠という物差しが約束として与えられています。

 パウロの言う強い者とは信仰理解の深さや道徳倫理的高さにある者ではなく、罪の自覚、救いの自覚、神の家族の一員としての自覚を持つ者という意味です。自分の満足ではなく、隣人を喜ばせる強い人、相手の立場に立って考え行動する人とは、神が自分のことを他の誰よりも心配してくださっていると自覚する人です。「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神があなたたたのことを心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)」自分の事を心配する必要のないとき、私たちは他の人々の必要や心配事に向うことができるのだと言う事です。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エフェソ2:19〜22)」神の恵みの先取りをする教会となりたいものです。