2006年3月19日

「一つの体、多くの部分」 コリント第一 12:12〜26

 使徒パウロは様々な問題に直面し混乱していたコリントの教会の人々に向けて、福音に立つよう励ましの言葉を送りました。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(2コリ4:7) 福音という人を永遠の命に至らせる宝を、価値がなく弱い土の器という私たちの肉体に宿らせてくださったと言うのです。

 人間の子供は大きくなれば人間になるとは限りません。美味しい食べ物やきれいな着物を着るだけでなく、生活の中で愛される体験(exerience)と愛する経験(exercise)をすることによって人間を形成していくと言うことです。しかしまた、人として成長しても人は自然のままで本当の神を知るに至ることはできないことを聖書は、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(2コリ2:14)」また、「聖霊によるのでなければ、だれも、イエスは主です。と言うことはできません(1コリ12:3)」と語ります。神は試練や困難やさまざまな機会をとらえて私達に働き、恵みによって目に見えぬ神を信じる信仰を与えてださいます。へブル書の著者は言います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(11:1)」目に見えるもの、自分の知恵や知識で理解できるものによってではなく、目に見えないものを信じる信仰によって私たちは新しく創造されるのです。

 そのような意味で、教会は信じる人が集まっただけでは教会とはなりません。パウロは、教会は一つの霊によって創造されたものだと言います。一つの霊とは、キリストの十字架による罪の赦しと復活を現す福音のことです。教会は福音を信じるだけでなく福音によって生きる神の家族となっていく共同体なのです。ヨハネは「言(神)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(ヨハネ1:12)」と言い、信じる者たちが神の家族となっていくことを証ししています。そして、教会はキリストの体を中心とし互いを必要とする生きた共同体です。一つの体とは、他者の痛みと自分の痛みが区別できない共同体ということもできます。神さまの私たちに対する戒めは「隣人を自分のように愛しなさい。」という一語につ尽きるとイエスさまは言いました。パウロは「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(12:20)」と互いの存在も賜物をも受け入れ合い、用いあいながら形成され成長していくのが教会なのだと言っています。土の器でしかない人の集まりである教会は、霊によって一致するとき、世の光地の塩となっていきます。