2006年3月12日

「主は愛する者を鍛える」 へブル12:5−6節

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛するものを鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」 この御言葉から神様に3つのことを聞いてみたいと思います。@ なぜ神様は私たちを鍛錬されるのか。A その鍛錬を何故、忍耐しなければならないのか。B その忍耐の先に何があるのか。

 初めに「主の鍛錬を軽んじてはならない」とあります。鍛錬とはへブル語では「教育・しつけ」とも訳されます。これは私たちが子供に「しつけ」をしながら教育をしていくのと同じように、父である神様も子である私たちをしつけ、教育する為に鍛錬をされるのです。そして「およそ鍛錬というものは当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われる」と言われているように、神様が私たちを鍛錬(しつけ)されるとき、しばらくの間は辛く、苦しいことであると言われ、また鍛錬を決して軽んじてはならないとも言われます。また、その鍛錬がどういう形で起こって来るか具体的には分かりません。しかし私たちの日常生活の中においてさまざまな形で起こります。身近なところでは一生懸命に教会生活をしているのに、家族の中に不幸なことばかり続く、思いがけない病気ばかり起こる、あるいは健康であっても家族の関係が乱れる、やっと家族が幸せになったと思ったら足元から崩れていく、また職場で学校で友人とうまくいかない、そんなときに私たちはいつも思う、何故こんな事ばかり起こるのだろうか?この悲しみの叫びは心の涙となり、神への信仰を曇らし、徐々に神様を見えなくしてしまいます。何故、神様は私たちを鍛錬されるのか。私たちがどんな状況の中にあろうと、いつも神を求め、神を信頼する心を養うためなのです。

 また、何故そこまで神さまの鍛錬を忍耐しなければならないのか? こんなに苦しいのなら、こんなに悲しいのなら、もう信仰なんて捨てて逃げてしまいたいと思う、それが何故いけないのか、それは、今ここで道を踏み外すと平和が来ないからです。もっと分かりやすい言葉でいうと、本当の幸せを得ることが出来ないからであります。鍛錬は私たちにとって決して喜ばしいものではありません。

 では忍耐の後に何があるのか?それは次のような約束があります。「後になると、それで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」パウロはコリント人への手紙の中で「肉体のとげ」について語っています。パウロは何の病気か分かりませんが、そうとうな痛みをともなう病を患っていました。その辛さ、苦しさ故に主に何度もこの「とげ」を取り去ってくださるように祈りました。しかし主はパウロからその「とげ」を取りませんでした。パウロは神さまを信頼し忍耐しました。結果神様を信頼する信仰が病気であるにも関わらず、喜べるようになったのす。病気が嬉しいではなく、それ以上の喜びが信仰によって与えらたと告白したのです。

 まさに「私は弱いときにこそ、強いからです」またイエス様も迫りくる十字架の試練から「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と願いました。しかし神様はその杯をイエス様に与えられた。そしてイエス様が十字架に付かれるとき、多くの者からののしられ、侮辱され、つばを吐きかけられ、鞭うたれ、最後には十字架上で忍耐して死んだ。しかし忍耐の後に何が起きたか、それは復活です。同じように私たちの人生、苦しい時や辛い時が必ずあります。また想定外な事も起きます。その都度、悩み心を痛めます。

 しかし「主は愛する者を鍛える」と言われるように、どうしようもなく辛い中に身を置いている人、試練の中にある人、その苦しみは全て神様がご存知であります。神は絶対に私たちを見捨てることはありません。忍耐の中で信頼して待つ、それによって私たちには「希望」が与えられます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む、その希望は私たちを」欺くことはありませんローマ5:3