2006年3月5日

「お前の名は」 創世記32:23〜33

 “その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。”

 神さまの私たちへの願いは、信仰の熱心さよりも信頼関係を持つことです。しかし、神との信頼関係は危機を乗り越えることを通して築かれます。旧約聖書のヨブは神の前に正しい人でした。しかし、彼は試みを通して、罪を犯したことのない人がすなわち神と同じ聖なる者ではないことを知りました。正しく生きることや努力が必ずしも報われるとは限らないのです。ローマ書9章によればパウロはイサクの後継者争いで、神は兄のエサウよりも弟のヤコブを良しとされた中に神の選びの不思議さを認めました。パウロは“神は「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。”と言います。箴言19章に「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」とも言われているように、私たちの努力や願いの強さで神をコントロールすることはできないのです。神は私たちの願いを聞き、実現するために存在する都合の良い全能者ではありません。私たちは神が自分の思い通りにならないことを通して従順を学び主権を委ねることを学びます。

 そして、神に信頼し従う人は祝福されることを体験していきます。「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。」(申命記28:1)祝福とは現実的に私たちの心を神の方向に変化させてくれる神の力だと私は思います。幸いと思えない心を真の幸いに向かわせる力とも言えます。ヤコブは自分が騙して長子の権利を奪った兄を恐れていました。神の祝福を得られないとの不安もありました。しかし、神の人と格闘して勝つほどの彼の願いと祈りは神を動かしました。「祝福してくださるまでは離しません。」との彼の信仰は神の憐れみを得ました。その時から彼の名はヤコブ(足を引っ張る者の意)からイスラエル(神は勝利)という名に変えられました。

 信仰には神との信頼関係を築いていく闘いがあります。神にまかせた努力とともに結果を神に委ねる心の潔さも必要です。そして、願い通りになったとしても私たちが勝ったのではなく、神の憐れみによるご計画が勝ったものであることを認めなければなりません。