2006年2月19日

「人生の軸」 へブル人への手紙9:23〜28

 「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」

 人間には人には言えない心の内の苦悩があると言われます。それは第一に、恐れ・不安です。健康や老いに対する不安、人間関係にある恐れはもとより死への恐怖があるのが偽らざる人間の内面的苦悩です。そして、罪責感があります。自分の弱さや失敗に対するものであったり、他者に対する罪悪感なども私たちを苦しめます。第三に劣等感があります。人と比較し自分を信頼できない苦しみを私たちは少なからず抱いているのではないでしょうか?しかし、本当の苦悩、心の戦いは魂にあります。ヘブライ人への手紙は聖書の正典として認められた早い時期より、手紙というより一つのまとまった説教であったと考えれれています。その言葉は私たちの魂の問題に迫ります。著者は語ります「人間にはただ一度死ぬことと、死んだ後に裁き受けることが定まっている。」“裁き”とはギリシャ語でクリシス、英語で Crisis(危機)と言います。人生の中で遭遇するさまざまな危機が私たちにはあるものですが、その最大のものは「死」それも肉体の死ではなく魂における死です。使徒パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた、という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」(1テモテ1:15)と、キリストは私たちを霊の危機から救い出すために来てくださったことを証ししています。

 人はその人生の軸をどこに置くかによってその安定度が大きく違ってきます。軸がずれると人はブレるのです。私たちが置くべき第一の軸は、「畏れるべき方を知る」ということです。イエスは言われました。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ12:5)それは、神こそが私たちを本当の意味で生かすことのできる方であることの逆説です。また、第二の軸は、「キリストにある救いによってもたらされる新しい契約に生きる」ことです。著者は9章で「キリストは新しい契約の仲介者、神の財産を受け継がせる方」と言い、財産は遺言により、“死”を通して有効となると言います。“契約”と“遺言”とはここでは同じギリシャ語が使い分けられています。すなわち、神はその豊かな財産をキリストの死を通して、信じる者に受け継がせて下さると言うのです。信じる者は神の優れた財産、永久の愛、永遠の命を受け継ぎ、その財産によって生きるのです。そして、もう一つの軸は、使命に生きることです。生まれて来たこと、生きていくことに意味があるのに気づくことです。パウロは聖餐式にあたり、「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(1コリント11:23)と言いました。

 人は死を覚え、その死から救って下さったキリストを軸として人生の中心に据えるときブレても倒れない人と変えられていくのです。