2006年2月12日

「罪からの解放」 ローマ人への手紙 7:13〜25

 創世記の最初から、聖書が語り続けている人間の現実につて、それは「死と罪」の現実であります。それが何であるか、パウロ自信がより深く人間の姿を見て、またそこに立ち告白した言葉が「私は肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」 つまり、自分の中には善がないと告白したのです。

 それは一体何か、それは「罪」であります。聖書は「正しい者は一人もいない」と言われているように、神様から見たら私たちは皆、罪人なんです。聖書は私たちの心の中を明らかにしております。それは(不義、悪、むさぼり、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、神を憎み、人を侮り、高慢、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲)更に聖書はこれらは死に値すると言われています。1:29 つまり「罪は死」であります。

 今、私たちに最も欠けているものは罪の認識だと思います。自分がどんなに罪深い者であるかを知らないことであります。だからイエスが十字架について下さらなくても、救われなくても構わないというような思いになってしまう。クリスチャンも自分が罪人であるという事を知っているが、その事によって、私たちは震え上がるほど恐れ慄いているであろうか。罪の理解はあるが、罪の意識がないのです。 

 今日のパウロの嘆きと思えるような告白を皆さんはどう感じるでしょうか?「善をなそうとしてもそれが実行出来ない」そして「望まない悪を行っている」でもそれは「私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」パウロは自分の責任ではないなどと無責任なことを言っているのではなく、この罪の法則に対して戦うことは出来ない、「善をしようとする意思はあるが、それをする力がない」私は無力なんだ。人間は、何が良いことか、よく分かっている。なのに、それをする事が出来ない。皆な平和を求めるのに、結果は争いになってしまう。

 更に、「わたしはなんという惨めな人間なんだろうか、だれがこの死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」パウロは自分の心、体を指差しながら、この罪の心、死の体から誰が救うのか。自分ではどうする事も出来ない、では誰が救うのか?もしイエス・キリストが十字架について死んでくださらなかったら、いつまで経っても自分の罪を背負って行かなければならなかった。しかし、その罪を代わって背負って下ださった方が居た。ここに私たちの大きな喜びがある。「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」使徒4:12

 一つしかない命を、私のために捨ててくださったイエスを忘れて、自分の為だけに生きているのなら、それはイエスに対して相応しい実を結ぶ事は出来ません。自分が罪人であったこと、それが無罪になった。そこには大きな犠牲があった事を忘れてはならない。キリストの血によって義とされ、神との間に平和が与えられた。キリストの十字架によって、私たちの悲しみ、痛み、絶望、恐れ、その全ての傷が癒され、慰められ、励まされ、希望が与えられた。私たちは、イエス・キリスト十字架において、「罪と死」との法則から解放されたのです。イエスは全ての人の為に十字架につかれた、その事を決して忘れてはなりません。今日、聖書がパウロを通して私たちに示してくださった大切な問題、私たち赦されたものとして、救われた者として、これからの人生どのように歩むべきか、それぞれが神様と向き合い、そして御言葉を聞いていかなければなりません。