2006年2月5日

「人の思い、神の思い」 ルカによる福音書6:27〜36

 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」

 神様の平和の作り方は私たちのそれと違っています。敵を許すのみならず、愛しなさいと言われるのです。マタイ福音書によれば「右の頬を打たれたら・・」とありますが、それは右手の甲で右頬を打たれるという侮辱の局地とも言える仕打ちにさえ手向かってはならないという戒めです。誰にそんなことができるでしょうか。しかし、主イエスご自身、報復による平和から愛による平和作りを私たちに示して下さいました。十字架にかかられた時、イエスは言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人類の歴史の中で、私たちは正義と秩序を名目に力による戦いを繰り返してきました。平和をもたらすために力による戦いをして来ました。しかし、いつもその結果は苦いものでした。今でも人々は武器を持つことは自衛のためにやむをえないことと理由をつけてそれを容認しています。イエスはまたこうも言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。(マタイ26:52)」日本国憲法第9条についての議論はさまざまですが、コスタリカに並び、イエスの不可能とも思える積極的無抵抗の戒めを国家憲法としている国は他にはありません。世界中の人々が願っても得られない理想を明文化している国は無いのです。イエスさまは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか」と、敵を愛する愛にこそ戦うべき戦いがあるのだと言われるのです。それはむしろ、武力による戦いより過酷で熾烈なもので、犠牲を伴うものです。非暴力が決して無力ではないことを人は知り、希望を持たなければなりません。また、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」との教えは、力による問題解決以前にやるべきこと、和解への方法があることを示します。

 そして、もう一つの平和の作り方は、神に平和を求め祈ることです。旧約の預言者エレミヤは救いの到来について「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。」と預言しました。神の平和とその実現への思いは人のそれとは違いました。神は人との和解と平和のためにみ子を遣わされました。武力によってそれを実現するのではなく愛と誠とをもって実現するために力ある方が力を捨てられたのです。平和の源である主に願い、祈り求めて参りたいと思います。