2006年1月22日

「それから・・」 エペソの信徒への手紙2:1〜10

 “事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。”

 20年前のアメリカに於いて、クリスチャンになった人々のその後を調査したところ、その多くが教会から離れ、信仰から離れてしまっていることが分かりました。それを元に、教会成長ということが考えられ、色々な取り組みがなされてきました。福音宣教の目的はもちろん信仰の決心者を出すことですが、それだけが目的ではありません。魂の決心に導かれた人を主イエスの弟子に変えることも大きな課題です。信仰の決心は聖霊のお働きによる一瞬の出来事ですが、その人にとっては人生が変えられていくという一生の出来事です。一瞬のことから永遠のことにつなぐことは何と難しいことでしょうか。主の弟子になるという言葉さえ、私たち人間にとっては不自由さを感じるものです。むしろ、主イエスの親友となること、と表現した方が受け入れやすいかもしれません。しかし、どのような表現を用いようとも主イエスの十字架と復活、再臨の約束に基づいた救いの業を自分の人生の指標としていくためには基準が必要です。

 第一に、聖書の原則を曲げないということです。イエスさまは「15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:4) 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12) 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37 ) など、新しい基準を与えて下さいました。私たちにはその原則に生きる恵みがあります。また第二に、救われた者にはまだ福音を知らない人々への関心を失ってはいけない責任があります。神ご自身が失われた魂を今も探し続けておられるからです。エデンの園で、何不自由なく暮らしていたアダムとエバが罪を犯し、神の目から隠れるようになった時から神は神から離れてしまった魂を探し続けておられます。そして第三に、救われた者にはキリストが唯一の救いの道であることを信じる必要があります。イエスは言われました「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3 ) パウロの言う「恵みによる救い」を後に、私たちは信仰の完成を目指してその善い業を行って歩む幸いの道があるのです。