2006年1月15日

「新しいことの始まり」 イザヤ書42:1〜9

 “見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもないこの地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ地とそこに生ずるものを繰り広げその上に住む人々に息を与えそこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼びあなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き捕らわれ人をその枷から闇に住む人をその牢獄から救い出すために。わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さずわたしの栄誉を偶像に与えることはしない。見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前にわたしはあなたたちにそれを聞かせよう。”

 聖路加病院理事長の日野原重明先生は、今年95歳になられるそうです。節目となる今年、先生は今までしたくてもできなかった沢山のことを整理し、ランク付けしてチャレンジして行きたいと語っておられます。年齢的にも実現できる可能性のあることと無いことがありますが、先生にとってのビジョンとは個人的な人生のしめくくりを成すためのものではありません。自分の内側を見つめつつ自分のできることを周りの人々のためだけでなく、見えない所にいる人々や未来の子孫のためにも受け継いでいけるような大きなビジョンのことです。それはたとえ先生が実現できなくても、そのビジョンゆえに多くの人々が多くの人々のために描いていく壮大な夢ということも出来ます。

 イザヤの頃、イスラエルは存亡の危機に直面していました。人々は周りの強大な国々によって侵略され、それでも人々はその助けを主なる神ではなく偶像や異教の神々に求めようとしていました。もはや彼らの力と知恵が尽きたとき、主なる神はイザヤを通して彼らに新しい希望と平和へのビジョンを送られました。主のしもべの歌と言われる冒頭の言葉は、来るべき救い主の姿を表します。それは、真の神に従わず、偶像の神により頼んだイスラエルの人々の辿った苦しみへの癒しの歌、人間の力によって救いを達成することのできなかった人々への慰めの歌、そして、新しい救いの道が与えられることを告げる喜びの歌でもありました。主にある「新しいこと」とは、新しい主の業の始まりということです。人の力の尽きたところから神の業は始まります。私たちの「もうだめだ」から始まるのが主の業ということです。使徒パウロは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(2コリント12:9)と主の言葉を引用し、喜んで自分の弱さを誇り、弱いときにこそわたしは強いと告白しました。私たちの限界は、神の可能性の始まりです。

 そして、もう一つの「新しいこと」とは、人に生きる目的が与えられ、他者のために生きる道が与えられたということです。パウロは、イエスさまの十字架の目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きること。(2コリント5:15)と語っています。主のために生きるとは、主が愛しておられる人々のために生きることでもあります。神が私達に与えられた新しいビジョンとは、たとえ今が絶望に思えても、個人や周りにある人々に留まらず、見えないところにいる人々や未来の子孫たちに受け継がれていく、魂の救いに関する壮大な業であり、私たちは神のビジョンに招かれているのです。