2006年1月8日

「御心が示されるとき」 マタイ4:1〜11節

 2006年の新しい年を迎え、今年も9373万人の人達が神社仏閣に出かけ、1年の祈願をしました。今年も家内安全、商売繁盛、苦しい事や悲しい事に合わず、この1年良い事がありますようにと祈ったと思います。皆さんもこの新しい年を願い込めて神様に祈った事と思います。言葉は違いますが、願っている内容を集約すれば同じだと思います。しかし、あの9373万人の方々と違うところが二つあります。

1、 祈っている対象が違う。                                  

 私たちはこの世の全てを創られ、全てを支配されている方に祈ります。他方は人間が作った神様に祈っていることです。

2、 私たちは御心がなりますようにと祈ることが出来る。           

 聖書では、神の子であるイエス様が、私たちと同じように誘惑を受けられました。私たちも、この現実の社会の中で試みを受ける者であります。しかし試みを受けたとしても、それは悲しい事でも、恥ずかしい事でもありません。何故ならば聖書は私たちが試みに会う時、それは神様の啓示を受ける時であると言われているからです。初めの誘惑は「神の子なら石がパンになるように命じたらどうだ」です。それに対してイエスは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。神の口から出る言葉、私たちが頂く御言葉は、私たちが想像する以上のものであり、「『光あれ』と言われた。すると光があった。創世記1:3」というように、また「ラザロに出て来なさいと言えば、死んで4日も経ったラザロが生き返るのである。」この力ある一つ一つの御言葉によって私たちは生きるのです。次に悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせ「神の子なら飛び降りたらどうだ・・天使たちが手であなたを支えるから」と言われた。私たちは、自分が信じている神様が自分を守ってくれていることを、ただ御言葉だけではなく、証拠を見たいと思います。だから信仰生活をしている途中に、突然病気になったり、家庭に不幸が起こったりすると神様の存在に不安を感じてしまうのです。

 そして、この状況から救ってくれたのなら信じる事が出来ると思ってしまいます。しかしイエス様は「あなたの神である主を試してはならない」と仰せられました。そして最後に「世の繁栄を見せて、もしひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」 悪魔は最後に、自分と妥協するよう求めました。神だ信仰だ教会だと言っても、この世と妥協しないでどうして生活が出来るのか?どうやって事業をやって行く事が出来るのか?隣人を愛していたらビジネスは出来ない。と言うように妥協を求めてきました。これに対してイエスは、『ただ神にのみ仕えよ』という言葉を持って退けられました。ヘブル人への手紙12:8「誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。」とあるように、私たちが試練を受けるとき、それは本当に苦しくて辛いものですが、その時こそ神の御心が示される時なのです。故に私たちは、荒野に出て行って試みを受ける事を恐れてはなりません。私たちの信仰は神を尋ねて行く事も大切でありますが、神から示されたものを受け取って行く事も大切であります。そして受け取っていくのは、私個人であって他人ではありません。あの人がこう言ったから、また牧師がこう言ったから、ああそうなのか、と言うような人任せの信仰では駄目なのです。そうしないと自分に対する神の啓示を受け取ることは出来ません。

 私たちはこの1年、神の一つ一つの言葉に生き、主を試すことなく、心から仕えて行きたいと思います。「何よりもまず、神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」です。