2006年1月1日

「原点に立ち」 1コリント3:1〜6

 “わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。”

 紀元前700年頃、国は分裂し滅亡の一途を辿っていたイスラエルの預言者イザヤは神のメッセージを民に伝えました。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:1,2)」光を放つなどととても言えるような状況にはなかった人々に対して語られたこの力強い言葉は、人間から発する言葉ではなく、力ある神から発せられたものでした。大切なのは言葉そのものより、その出所です。「光」とは、もともと悲しみや敵意、死などに対する希望を表しました。たとえどのようなことがあったとしても大切なのは、出来事そのものではなく、全てを掌握しておられる神を信じることです。

 使徒パウロはギリシャにあるコリントに教会を建てました。そして、(旧約)聖書に精通したユダヤ人、アポロは霊的指導者として大きな働きをしました。しかし、人々の関心、価値観は以前と変わりなく、まるでイザヤの時代の民のように分裂状態にありました。それは、彼らの目が神ではなく人や人の思いに向っていたからです。人間にとって、成長することは大切なことです。しかし、それを成す力の出所を知ることはもっと大切であり、そこに信頼することも同様です。「成長」とは、新約聖書によれば増え広がることであったり、命が支えられ生かされるという意味で使われています。イエスさまは言われました。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。(マタイ13:31)」「野の花がどのように育つか注意して見なさい。働きもせず紡ぎもしない。(マタイ6:28)」イエスさまは、「事は私たち人間の努力によるのではなく、神の憐れみによる」とおっしゃっているのです。人は勝利、成功、繁栄、そして成熟を重視し求めます。しかし、それらの行き着く先は敗北、失敗、衰退、そして腐敗です。成長ということさえもその先には衰退があります。大切なことは、本質的なことであり、移り行くことさえも支配しておられる神に信頼することです。

 新しい一年、私たちの教会も大きな成長を遂げる一年になることを願っていますが、忘れてならないのは、神と神のみ旨とを求めることです。成長そのものが目的ではありません。パウロが「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エフェソ2:21)」「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。(エフェソ4:13)」と言う通り、原点に立ち、神とイエスさまとの関係の中に生かされ、歩んで参りたいと願っています。