2005年12月18日

「探していたもの」 ヨハネによる福音書1:1〜14

 “初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。”

 あるテレビ番組で浪速のちびっ子棋士こと、和田柔大(ゆうた)君を知りました。小学校1年生にして十分おやじの味を出しているおもろい子です。テレビ局の若い担当者もたじたじのセリフを吐く、絶妙トークが人気です。将棋の腕を上げるために上級者と試合して完敗し心配する担当者に「あんな〜田中くん、夜は、夜明け前が一番暗いんや」とか、「朝のこない夜はない」とかそのセリフは小学1年生とは思えません。しかし、そんな柔大君もこれから色々な試練に会いながら成長していくのでしょう。

 平和という言葉は昨今益々重い言葉になってきました。平和の反対語を探すと真っ先に思い浮かぶのが「戦争」「争い」でしょう。しかし、ヘブル語でシャロームと言われるその言葉は単に国や個人の間に争いが無いことではありません。それは、心の平安や国の繁栄、健康であることや和解、そして悩みからの解放をも意味しました。そして、平和とは神より出て神により守られるものとの理解されています。神と人との関係の有り様が平和と深く関わっているというのです。もっと言えば、神との平和無しに地上に平和は無いということです。

 私たちの人生の中で目の前が真っ暗、お先真っ暗になることがあります。柔大君にとっては朝の来ない夜はないかも知れません。しかし、時として私たちは何の光も見出せなくなる出来事に遭遇してしまう時があるものです。癌を宣告された時、突然の解雇を言い渡された時、試験に失敗してしまった時・・・等々。自分の力で何とかなる試練はまだ試練ではないかも知れません。しかし、どうすることも出来ない状況に陥った時、人は自分が何に頼って生きているのかを思い知らされます。「主はわたしの牧者」と詩篇23篇を詠んだダビデは、その平和が自分自身にあるのではなく、神との関係の中に守られていることを証しました。

 「言葉」とは、語源的に物事をまとめ整理するという意味があります。神は世に対する神の思いと計画を整理しまとめて私たちに分かる形で表に現して下さいました。神はご自身の命を言葉とし、言葉を肉体にしこの世に与えられたと言うのです。目の前が真っ暗になる出来事があろうとも、絶望の中にあろうとも、神の言葉、人となられた主イエスは光です。それは、究極の暗黒、死にも打ち勝つ希望の光、罪からの救いの光です。人が探していたこの世の平和は、世の救いのために来られた主イエスを通して神との信頼関係の中に造られていきます。