2005年12月4日

「事の始まり」 ルカによる福音書1:26〜38

 “天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。”

 イエス・キリストがお生まれになるおよそ2000年前、イスラエル人の始祖となったアブラハムは神からの召しを受け、父テラと共にその生まれ故郷カルデアのウルを出ました。彼に与えられた約束は、子孫の繁栄とその子孫によって全民族が祝福されるようになるということでした。神の約束は必ず成ると聖書は証しします。イスラエル人が全人類の祝福をもたらす方の到来を忘れ諦めかけていた時、神は思いもよらぬ時代、思いもよらぬ場所で乙女マリアに現れ、その計画が続いているどころかその頂点となる出来事が始まったことを告げられました。天使はマリアに「恐れることはない。」と語りました。常識では考えられない予告とその予告が彼女に何をもたらすか彼女はよく知っていました。マリアに身に覚えのないことでも婚前の姦淫に対する罪は死を意味しました。しかし、マリアは天使の言葉に信頼しました。「神にできないことは何一つない。」

 クリスマスは神の言葉は成就することと神にはできないことは何もないと信じたマリアの信仰から始まったと言えます。もし、マリアがそれを信じることができななったならば今私たちはクリスマスを祝っていなかったかも知れません。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とのマリアの信仰告白は、全ての事柄の始まりに信仰が必要であることを教えてくれます。フィリピ書4章で、神の救いの計画を知り信じたパウロが言いました。「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」彼は自分の人生に筋が通った、と言っているのだと思います。彼の生きる目的と生き方全てが統合され、不可能を可能とする神がそれを支えてくれると彼は信じたのです。

 使徒言行録16章にてパウロとシラスは牢獄にありました。ところが、大地震の後、全ての牢の扉が開き全ての囚人の鎖がはずれてしまいました。看守はパウロをはじめ囚人が逃げ出したと思い、その責任をとり自害しようとしました。しかし、本来逃げ出しても差し支えのないパウロたちは留まり、救いを求める看守に言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」アブラハムの子孫を通して全民族が祝福されるとの神の言葉はマリアの信仰によって実現しました。私たち家族の救いの実現は実に信じるものたちの信仰によって受け継がれ実現していきます。