2005年11月27日

「明日への架け橋」 エフェソの信徒への手紙2:14〜16

 “実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。”

 今週よりアドベントに入ります。アドベントには「到着」「出現」とか「到来」という意味がありますが、待降節あるいは降臨節としてキリスト教では救い主イエス・キリストの誕生を待ち望む季節として知られています。今では世界中で知られるアドベントですが、クリスチャンにとってはもう一つの意味があります。それは、キリストの再臨(the Second Advent)です。クリスマスはクリスチャンにとって、イエス・キリストの誕生を祝うことだけでなく、世の終わりに再び来られるというキリストの再臨を待ち望むことでもあります。

 街はクリスマスの飾りで彩られ、楽しい雰囲気に満たされています。しかし、世界中で多くの人々が祝うクリスマスも、その本当の意味を知り、神さまからのプレゼント、キリストによる救いを受ける人は少ないのです。人には「出会い」という経験がありますが、クリスマスはキリストの誕生を知り、神の愛を経験する大切な時と言うことができます。しかし、多くの人々がキリストに出会うことなく、「すれ違い」で終わっています。ルカ福音書10章でイエスさまは自分を正当化している律法学者に向かって、「良きサマリア人」のたとえを語られました。ある旅人がエリコに下る途中追いはぎに襲われ、半死半生の目に遭いました。そこに祭司とレビ人(祭司職の部族)が通りかかりましたが、それぞれに傷ついた旅人を避けてすれ違って行きました。しかし、そこを通りかかったサマリア人が旅人を介抱し助けました。そこで、イエスさまは律法学者に聞きました。「だれが旅人の隣人となったか?」律法学者は同胞のイスラエル人さえ大切にしていれば律法をまっとうしていることだと思っていたのです。

 マタイ福音書5章によれば、イエスさまが来られたのは「律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」でした。また、9章によると「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うため」でした。イエスさまとの出会いには救いがあります。そして、救われるだけでなく、「変えられていく」人生があります。同じマタイ10章では、イエスが来られたのは「地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすため」と語られています。剣とは、争いや分裂を意味するのではなく、イエスに出会った人には「自分中心」の生活から「神中心」の生活に変えられるという人生の「危機」が訪れることを予告しています。許せない人を許す事ができるか。たとえ絶望しても神の希望に生きることができるか。病気になっても神を信頼できるか。思い通りにならない人生でも神の恵みを信じて誠実に生きることができるか。主イエスは私たちの救いのために来て下さり、私たち自身を変えて下さるために来られました。

 第二に、イエスさまは私たちを神の家族として招くために来て下さいました。神は、私たちが生まれながらの人間関係で終わらせないために、主イエスを与えて下さいました。ヨハネ福音書3章で、ニコデモという議員に対しイエスさまは語られました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」神は人を霊的存在として創造されました。人には人間関係を超えた霊的な交わりが必要なのです。使徒パウロは、イエスさまが神と人とを分け隔てていた敵意という隔ての壁を取り壊し、十字架を通して、神と人とをつなぐ架け橋となって下さったと言いました。神の家族となった者たちが、多くの人と神とをつなぐ架け橋となるよう、主イエスは魁(サキガケ)となって下さいました。クリスマスは神が私たちを神の家族に招いて下さる出会いの時なのです。