2005年11月20日

「明日への視点」 創世記15:1〜6

 “これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。”

 私たち人間は、本当のところでは明日のことも自分自身のことも解からないで生きているのではないでしょうか?解からずとも生きていけるところが人でもあり、知りたいとの願いを持っているのも人間です。信仰の父と呼ばれたアブラム、後のアブラハムはその父テラと共に故郷カルデアのウルを発ち、神が示された地カナンに向いました。彼はそこがどんな土地で何が待っているのか知らずに未知の世界へ踏み出したのです。彼にその力を与えたのは神の約束です。アブラハムは自分を知っておられる神の言葉を信じ、約束に向って行きました。神に知られて生きる人の人生に無駄はありません。苦しみが苦しみで終わることもありません。その人はたとえ試練のときも目線を落とし、うつむいて失望や絶望に陥る必要はありません。

 しかし、人生は決して甘くはありません。アブラハムは何度も主の約束を疑うような状況に直面しました。甥ロトとの土地をめぐる葛藤のとき。100歳となったアブラハムと90歳のサラに子が与えられるという信じられない予告を受けたとき。その子を通してアブラハムの子孫は大きな民となり、全民族が祝福されるというのです。それは、その子孫より生まれる救い主イエスの到来と主イエスの十字架と復活によってもたらされる救いによって築かれる神の家族への祝福を意味しました。年老いたサラは心の中でひそかに笑いました。常識で考えても、理屈で考えても不可能なことと心の奥底で否定したのです。その後、神はさずけたひとり子イサクを捧げよとアブラハムに大いなる犠牲を求められました。畳みかけられるような試練の中で、私たち人間の信仰は試されます。自分の経験や判断を超えたところに神の計画はあります。そんな私たちを神はアブラハムのように外に連れ出して語りかけられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」それは数を意味するのではなく、その一つ一つが神に覚えられているという驚きです。一つ一つの星が神の計画と目的の中で繋がっているという驚きです。人にとって、無駄な人生はなく、無目的に生まれた命は一つもないことを知る驚きです。

 アブラハムが父テラと故郷を出たのは主イエス・キリストのお生まれになるおよそ2000年前、そしてイエス様の降誕より現在まで2000年の時が流れました。なるほど高度な文明の中に生きる私たちにとって福音は鼻で笑えるほど常識からすれば滑稽な話です。神が人となり、処女マリアから生まれ、人間の全ての罪を償うために十字架で死に、三日目によみがえる、という不条理で常識はずれな救いの知らせを誰が信じられるでしょうか?しかし、神は聖霊により、限界ある私たち人間の理性の部屋から連れ出し、満天の星を示し、あなたの知らない神の計画にあなたを招いて下さったのです。神の視線の先にあなたの明日もあるのです。