2005年11月6日

「イエスの命が現れるために」 2コリント4:16〜18

 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 本日は召天者を記念して礼拝を守ります。へブル書11章は、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」と、信仰によって召された者たちの幸いを語りました。もし、私たちに真の神がおられなければ、その人生は浪費に過ぎません。きつい言い方かもしれませんが、意義ある人生などと言っても死んで終わりならば人生は空しいものに過ぎないのです。イエスさまはヨハネ福音書15章で、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と、私たちが生まれて来ることと死ぬことに神のご計画の不思議があることを語られました。魂の新生は、私たちに神による選びと派遣、そして結果があるこことを教えてくれます。真の神がおられ、その神を知り、神と共に歩むことがなければ人生の価値は無きに等しいとさえ言えます。パウロは、信仰に生きる人生はどんな困難があろうとも行き詰まることはなく、打ち倒されても滅ぼされないと断言し、どんな人生であれ、どんな死に方であれ、復活への希望が与えられていると約束しています。信仰に生きる人は、落胆しない、いや、むしろ落胆することができないのだとパウロは言っているのだと思います。信仰にあってバプテスマを受け、召された人には神の幸いがあるのです。

 さて、そこでよく聞かれることは、クリスチャンでない人々の死に、救いはあるかということです。聖書は明確に答えます。「この人(イエス)による以外に救はない。」(使徒4:12)、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない。」(2コリ5:10)、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。(ヘブル9:27)しかし、同時にパウロは、心の中で「『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります、と言います。誰が天国に行くかという論争は的外れなことです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」(ルカ20:38)です。私たちに委ねられていることは、死んだ人の行方を心配することではなく、正しい、愛である神は間違ったことはなさらないことを信じ、生きている者が主イエスさまの福音を信じて口で告白し、主の救いに与ることです。「死」に打ち勝つことのできた唯一の方、イエスさまの命が現れるためにキリスト者は備えられています。