2005年10月30日

「生きていく力」 フィリピ人への手紙4:4〜7

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

 箴言にこのような言葉があります。「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。(25:20)」これは見え透いた慰めやその場しのぎの励ましは、むしろ人を苛立たせるという意味の言葉ですが、パウロの「喜びなさい」という励ましを伴った命令は私たちに生きていく力を与えてくれると思います。それは、単に喜べば良いというのではなく、「主において」「常に」喜ぶことです。聖書にはどこにも「自分の力で頑張る」という意味での「努力しなさい」という言葉はありません。ただ単純に「これをしなさい。」という言葉だけです。イエスさまは人々に言葉を語る理由として「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:33)」と、この世のさまざまな苦労の中にいる私たちに慰めと励ましを与えて下さいました。既に勝利しておられる主を後ろ盾に、どんな時でも喜べるのだとパウロは言っているのです。そして、これをしなさいと勧めるのです。

 「痛み」は体からの危険信号だと言います。異常があり癒される必要があることを体が訴えるのです。同じように、私は私たち人間の「思い煩い」「心配」は魂からの危険信号だと思います。何故私たちは思い煩うのでしょうか?それは、結局のところ私たち人間の、神に対する心の態度に起因しているのだと思います。「信頼」とは、その人が言う言葉を信じて行動すること、という意味です。あらゆる問題(経済的な問題、人間関係の問題、健康に関する問題等など)全てを知っておられる神に相談できないことから煩いが始まります。神を信頼していると思っていながら、神以外のものを本当は頼りとしているところから心配は広がっていきます。ある伝道者は、人は超自然的な存在である、と言いました。私たち人間のかかえる問題も超自然的なのです。それら全ての問題を解決するためには、超自然的な存在である神による手当てが必要なのです。私たちの魂から来る痛みの信号、思い煩いには神により頼む信仰が必要です。詩篇62篇は、「力は神のものであり、慈しみは私の主よ、あなたのものである」と歌います。その力の神に、信頼と感謝を込めて「求めているものを神に打ち明け」る時、主は惜しみなく信じる人に、あらゆる人知を超える神の平安(平和)が与えられるとパウロは言います。「打ち明ける」とは、自分の思いを相手に周知徹底させるという意味です。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(詩篇55:22)」

 人生を生きていく力は、実に生きておられる神から、その神を信頼して従っていく信仰(神に向う姿勢)によって発揮されていくのだと思います。