2005年10月9日

「わたしにつながっていなさい」 ヨハネ15:1〜5節

 さて皆さんはこの一週間どのように過ごされたでしょうか。? 私たちは週の初めの日曜日にこの教会堂に集まり礼拝を捧げます。その後は、それぞれが与えられた持ち場に戻り、残りの6日間をしばし教会から離れて社会で生活をいたします。それは私たちにとって本当は厳しい中に身を置くということです。特に日本社会の独特のしがらみの中において、私たちはあらゆる偶像に捕らわれながら生活をします。

 物の考え方や物事の処し方、たくさんの教えがありますが、全てこの世の基準に合わせて出来上がっているものです。また私たち自身もそれぞれの中に専用のものさしを持っていて、常にそのものさしで相手を計ってしまいます。特に人間関係においては、自分のものさしに合わせて、あの人はどうだ、この人はこうだと決め付けてしまいます。実は自分もその物差し計られているんですが、その事には全く気が付かないのです。この世に思いを寄せ、この世に希望を抱き、この世に従うとき、当然この世の中から栄養をもらって成長するわけです。その結果どういうものが実を結ぶのか、私たちはあまり感じませんが、聖書はその事実を私たちに突きつけています。

 それは「敵意、争い、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」ガラテヤ5:20などです。

 これが世から栄養をもらって成長した結果なのです。こういったものが渦巻く社会に私たちは身を置いているわけです。パウロ自身も次のように告白しております。「私は自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」ガラテヤ7:15私たちもそうです。敵意、争い、怒り、ねたみ、などそんな思いを持ちたくない、しかし互いに傷つけあったり、恨みあったりしてしまう。そして私たちの魂は疲れはて、ぼろぼろになってしまう。最後には何がなんだかよく分からない自分になってしまうのです。例えば「いいか、馬鹿という言葉を使ってはいけません。それは否定的な言葉であり、否定的な言葉にはサタンが宿るだ、よく覚えておきなさい。本当にお前は馬鹿なんだから。」自分のしていることが分からないのです。だからイエス様は仰せられる「私につながっていなさい、私もあなたがたにつながっている」と、このつながることは私たちの人生に大きな意味をもたらすのです。「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫、私たちは枝であると」農夫である神が豊かな実を結ぶように枝である私たちを手入れしてくださいます。神が手入れをして下さると素晴らしい実を結ぶことが出来ます。それは「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和」であります。ガラテヤ5:22 イエス様につながっていると言う事は、今日もイエス様の贖いの血が私たちの心に注がれているわけです。9節以降に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの愛にとどまっていなさい」とあります。私たちが神を信じる時に、神は手を取って共に歩んでくださいます。私たちも神の愛にとどまり、豊かに実を結ぶ者になりたいと思います。

 良い木には良い実がなり、悪い木には悪い実がなるとあります。私たちは弱いものです。いつもイエス様に、教会につながることによって良い実がなるのです。その為に私たち自身も互いに愛し合い、赦しあい、助け合い、励ましあいながらイエス様の愛の中にしっかりと留まりたいと思います。