2005年9月25日

「愛は決心」 エレミヤ書31:1〜6

 『そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は荒れ野で恵みを受ける、イスラエルが安住の地に向かうときに。遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ。おとめイスラエルよ、再び、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ楽を奏する人々と共に踊り出る。再び、あなたはサマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。見張りの者がエフライムの山に立ち呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう我らの神、主のもとへ上ろう。」』

 時々、聖書を読んだことのある人たちから、同じ神様なのに旧約と新約では印象がずいぶん違うのはどうしてなのか?という質問を受けることがあります。確かに、旧約聖書における神は厳しく残酷な神だと感じることがあります。ノアの大洪水での人類への裁き、イスラエルの民や他民族への容赦ない裁きなど、理解に苦しみことが多々あります。それに比べ、新約におけるイエスさまを通して示された神の愛を見るにつけ、旧約と新約の神様は本当に同じ神なのかと思ってしまって当然です。しかし、決して聖書の神様は二重人格などではありません。イスラエルの民と律法という約束を通してつながってくださった神は、神から離れ、約束から離れ、滅びに向う民に罪の重さと約束の聖さを民に明確に教える必要があったのです。彼らの存在を憎まれたのではありません。彼らを滅びに至らせる罪を憎まれた結果だったのです。しかし神は、罪ゆえに苦しみ滅亡へと向かう民イスラエルに対し、時至って御子イエス・キリストを世に遣わされました。律法をキリストによって全うし、その罪への怒りを御子一人に向けられたのです。

 先週、私は外出先で尿路結石という病気に罹り、大変な痛みを経験しました。その痛みは、時として妊婦の出産に譬えられると言います。前章でエレミヤは、剣に譬えたアッシリアにより滅亡へと追い込まれたイスラエルの苦しみを「男が子を産む苦しみ」で譬えました。しかし、彼は同時に神の愛と恵みとによる、その苦しみからの解放の時が近いことを預言しました。幸い、私の結石は治療後、数時間のちに排泄され、その痛みが嘘のように消え去りました。長い、継続的な苦しみも辛いものですが、突然やって来る苦しみも辛いものです。人生の思いもよらぬ試練や、耐えられない苦しみに会うことを英語で“Acid test(酸によるテスト)”と言うそうです。まがいものの金であれば酸をかければ溶けてしまいます。しかし、本物の金であれば何も害は受けません。信仰も同じです。試練や苦しみによって私たちの神に対する信仰が試されることがあります。しかし、それは私たちを滅ぼすためのものではありません。むしろ、信仰が強められるためのものです。神が与えられる試練には解放が約束されています。それは同時に神の私たちに対する愛の約束の確かさを表しているとも取れるのです。信仰によって私たちを滅びから救うと約束してくださった神は、「遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ。」との愛の決心をもって私たちを導き続けて下さいます。