2005年9月11日

「日々新たにされて」 コリント(二)4:16〜18

 私たちはこの社会の中で、毎日いろいろな出来事に出会います。「うれしいこと、楽しいこと」逆に「悲しいこと、つらいこと」などたくさん出会います。みなさんの人生はどちらの出会いが多いでしょうか。? 振り返れば人生、試練のときのほうが多かったと思います。例えば、思いがけない病気や事故に遭遇してしまうと特にそう感じてしまいます。また大病などをしますと「神様を信じているのに、どうしてこんな目にあうんだろう」、私は今まで人に迷惑もかけずに一生懸命生きて来た、なのに「神様がいるなら何故こんな不条理なことが起きるのだろ」と嘆くことってありますよね、神が私たちを救い、愛すと言うのなら何故この状況から助けてくれないのか。いろいろ疑問が沸き起こってくることもあります。

 ある方が大学生の息子さんを遭難事故で亡くされました。母親の悲しみは深く、来る日も来る日も、仏前に座り悲しみ続けました。家族や友人も見るに見かねて、何とか慰めようと試みるのですが一向に耳を傾けない、そんな状態が続く中で、ある日ふと誘われるままにキリスト教の家庭集会に出席したそうです。それ以来求道生活を始め、ちょうど一年あまりたったころ牧師がその女性にバプテスマを勧めました。そのとき彼女は「神は愛だとおっしゃるが、私にはどうしてもそうは思えないのです。もし神様が愛の方であるならば、何故私の息子を危険から救ってくださらなかったのでしょうか。」と言いました。誰もこの質問に答えることは出来ませんでした。その後一年くらい経ったとき、今度は彼女自らバプテスマを申し込んだそうです。そして牧師に「息子が何故あんな死にかたをしたのか未だに分かりません。でも神様が独り子であるイエス様を遣わし十字架につけ、私の罪を贖ってくださったことを信じられるようになり、神様が愛であることが分かりましたといった。」そして、きっと息子の死も神様の愛のご配慮の中で起きたことであると解かるときが来ると信じます」と言った。

 このように神の約束と自分の現実との間には大きなギャップがあります。この世界を見れば戦争があり飢餓があり不公平がある。この世の現実から神を探し見ようとすると、この世のどこに神がいるのかと言いたくなる。息子を亡くされたお母さんも初めは現実から神を見ようとしていた。そして神がいるなら何故息子を助けてくれなかったのか。?  しかしその母親は現実から神を見ることをやめ、神の啓示(約束)から現実を見ることにし、そして神が愛であるというメッセージを受け取るようにした。これが信仰なのです。現実は何も変わらない、変わらないどころか、思いかけないことがたくさん起きる、その中で日々「新たにされて生きる」ということ、それは「キリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい」と言われているように、神の約束を信頼して生きるということなのです。この信仰が絶望の中にあって希望となり、暗闇の中にあって光となる、そして私たちの慰めとなり命となる。そしてこんな世の中でもしっかりと歩むことの出来る大きな力となって下さる。聖霊が私たちの「内なる人」を強めてくださるのです。

 故に私たちは「信仰」によってしっかり立っていかなければなりません。それは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐことになります。なぜなら「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」私たちは神を信じ、信頼し、いつも十字架のキリストを仰ぎ見て生きたいと思います。