2005年9月4日

「泣き言の果てに」 詩篇 142篇

 『“マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴にいたとき。祈り。”声をあげ、主に向かって叫び声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。御前にわたしの悩みを注ぎ出し御前に苦しみを訴えよう。わたしの霊がなえ果てているときわたしがどのような道に行こうとするかあなたはご存じです。その道を行けばそこには罠が仕掛けられています。目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく逃れ場は失われ命を助けようとしてくれる人もありません。主よ、あなたに向かって叫び、申します「あなたはわたしの避けどころ命あるものの地でわたしの分となってくださる方」と。』

 よく、「泣き言を言う前にすることがあるだろう」などと言われることがあります。私たちの世界では物事を自分の力で何とかすることが好まれるようです。昔私も、男だったら泣き言を言うな・・などと叱られたものです。それはそれで励ましであり、頑張って強くなる道がそこにはあるのだと思います。しかし、自分の力が及ばないことを思い知る時、どうにもならない状況に陥った時、人はむしろ自分の頑張りをやめて弱音を吐いた方が良い時もあります。そうした方がかえって力を得ることがあるのです。

 聖書に登場する信仰の人々には意気地なしが多いように思えることがあります。イスラエル人を奴隷の地エジプトから脱出させたモーセも、その責任の重さに弱音を吐き、神に不平不満を並べ立てました。しかし、神はモーセに神の杖を与え、協力者アロンを備え、ョシュアという後継者まで与えて下さいました。預言者ヨナも、自分の嫌いなニネベの人々を救うという迷惑な命令に泣き言を言い、神から逃げ回りました。しかし、神は暑さから来る苦痛をやわらげるためにとうごまを備え、育て、ヨナの頭の上に日陰を作って助けて下さいました。しかし、神は翌日の夜明けに虫を送り、とうごまを枯れさせてしまわれたのです。頭上に暑い太陽が昇るとき再びヨナは弱音を吐き、不平を言いました。それは、神はどんな人であっても救いたいと願っておられることをヨナに教えるための神の導きだったのです。使徒ペトロも、また偉大な伝道者パウロでさえ決していつも従順だったわけではありません。むしろ神に対して率直な人々でした。そして、自分の領分を知る人々でした。自分の弱さを認め、正直に自分の気持ちを心から信頼する強い神に打ち明けることのできる人々でした。追い詰められた時、主に信頼し弱音を吐き泣き言を言うことができる関係だったのです。彼らは意気地なしではなく、主は逃れ場であることを知っている人々でした。

 神は水臭いことはお嫌いです。私たちが良い子ぶるのを嫌われます。自分の限界をわきまえ、神に自分の正直な思いを打ち明ける時、主はそれを聞いて、私たちを罠から助け出して下さいます。王となった時、罪を犯したダビデでさえ神は彼の率直で一途な信仰を良しとされ彼とその国とを祝福されました。ダビデは学んだのです。初代王サウルに追われ、皆が敵となり、誰も助けてくれなくとも、神だけは彼の味方、避け所であることを。私たちの弱音を聞き、泣き言を受け止めて下さる方は私たちの嘆きを聞き、信じる者に新しい力を与え、立ち上がらせて下さいます。主は、泣き言を言えるほど信頼し、より頼む関係を私たちと結ぶことを望んでおられます。