2005年8月28日

「勇気と目的があれば」 へブル書4:14〜16

 『さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。』

 「万人祭司」、プロテスタント教会が掲げた宗教改革の三本柱の一つです。救いにはキリスト・イエス以外の仲介者を必要とせず、イエスさまを通してすべての信徒が祭司であり直接神との交わりが持てるという信仰です。福音の目的は、魂の救いだけではありません。救われた者が全人格的に変えられ、キリストに似た者となることも大いなる目的です。主イエスは私たちを執り成すために自分自身を犠牲として捧げ、私たちの罪のために十字架に死んで下さいました。その深い愛によって救われた私たちはキリストにある小さな祭司ということができます。そして、多くの人々を神の愛に結ぶためにキリストがそうであったように自分を捧げ仕えて行くことができるのです。

 人が歳をとったり病気により、認知障害を自覚始めるとき、不安と混乱があると言います。自分が自分でなくなっていく恐怖、自分を意識できなくなっていく苛立ちは本当に深刻なものだと思います。また、心の病に苦しむ人々、自分でもコントロールできない自分の気持ち、感情などに翻弄される人たちのやり場のない不安や怒りも大きなものだと思います。理由のわからない出来事に遭遇し、自分の力ではどうすることも出来ない状況にある人に主は近いのです。聖書の中でも有名なイエスさまの「良きサマリヤ人」のたとえ話し(ルカ10章)、は神が助けを必要とする人の隣人となってくださることを物語ます。傷ついたイスラエル人を同胞のレビ人たちは避けて通り、敵対関係にあるはずのサマリヤ人が傷ついた人を「哀れに思う」気持ちから助けたという話は、神が苦しむ人を決して見過ごしてはおられないことを示唆しています。そしてそればかりか、神の関心は救いを求める人のみならず、神の助けや神の救いを必要と思わない人々にも及んでいます。イエスさまにつまづいたファリサイ派や律法学者達に対してイエスさまは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言われました。魂の病を罹っているにも関わらず、自覚のない人にこそ神の憐れみは深いのです。

 クリスチャンは大祭司イエス・キリストから遣わされた小さな祭司です。そして、自分自身、弱く助けを必要とする存在であることを勇気をもって認め、どのような隣人をも神の恵みの救いに導く目的を持ったキリストの使者なのです。