2005年8月21日

「行き止まりから」 コリントの信徒への手紙2 4:7〜10

 『ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。』

 神さまは何処におられるか?色々な答えが出てきそうです。クリスチャンになる前の私は、何処かに人を超えた存在がきっとあると信じ、漠然と神を捕らえていたと思います。神を一つに限定すると考え方が偏って盲目的になるので宗教を信じるのはよそうと思っていました。私は浄土真宗の檀家で神社にもお参りするという典型的な日本の家庭で育ち、キリスト教は世界が違う人の宗教だと思っていました。しかし、信仰を持った当時、私は将来への不安や人間関係で生じた罪悪感で苦しんでいました。そんな時、イエスさまに聖書の言(ことば)を通して出会い、罪の赦しと平安が私の心に沁みこみそして広がりました。キリスト教の信仰を持った時(正確には恵みとしていただいた時)、罪が赦された喜びが大きく、私は信仰に何の矛盾も感じませんでした。しかし、その後矛盾を感じるようになりました。神さまを信じているのに不都合なことが自分に起ったり、教会の中では争いがあったりして、キリスト教というのは矛盾だらけではないかと心の中でつぶやくようになりました。しかし、最初の信仰にあきらめないで立ち続け、他の信徒の方々の祈りに支えられているうちに、神さまのおられる所が少しですが確信をもって分かって来るようになりました。その場所とは、私の考えや努力や力が行き止まった所でした。

 パウロは明らかに行き止まりの場所に神を見ています。「四方から苦しめられる」とは、狭い所に追い込まれ窮地に陥ることです。パウロ自身、外からは中傷非難妨害があり、内には日々の生活への恐れ、人間としての弱さ、迫害による死への恐れがありました(7:5-7)。しかし、同時にその場所でパウロは、失望しなくてもいい、あなた方は見捨てられもせず滅ぼされもしないと断言するのです。現実とは相反することを平気で言っているのです。

 食事の主役はお料理です。どんな立派な器を使っても中心はお料理です。パウロはあなた自身とあなたの人生とは、器に過ぎないと言います。中に何が入っているかが重要なのです。パウロは、キリストが罪の身代わりとなって十字架に死に、復活されたという福音を彼の器の中身としました。そうです、福音は事実に基づいていながら、この世の常識では矛盾して見えるのです。それをパウロはこう表現しました。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(18節)」クリスチャンは、信じようとしない人を説き伏せることはできませんが、信じない人もクリスチャンを説き伏せることはできません。ただ、神のみが聖霊により十字架の事実に基づいて両方に現れて下さいます。すなわち、信じない人には信仰を、信じる人には確信を与えて下さいます。神は「行き止まり」から私たちを脱出させてくださることのできる力ある方です。