2005年8月14日

「互いに赦し合う」 コリント(二)2:5〜11
               
 先日、戦後60年を向え「ヒロシマ」という特別番組が放映されておりました。その中で、当時原爆の製造に関わった科学者が始めて広島を訪れ原爆記念館に行きました。原爆投下後の悲惨な町並みの写真を見つめながら戦争の悲惨さ、恐ろしさを噛みしめていました。その後、原爆製造に関わった科学者と被爆者2名の方と話をする時が設けられました。被爆者の方から科学者にあなたはあの原爆記念館を見てどう思いましたか。? あなた方の造った原子爆弾によってもたらされた悲劇を見てどう感じましたか。?いろいろ質問をして最後に、あの原爆投下は間違っていた事を認めてほしい、そして一言謝ってほしいと訴えました。しかし、その科学者はそれは出来ない、何故ならば私も多くの友人をパールハーバー(真珠湾攻撃)で失ったから、結局、互いに自分の思いを語り、その気持ちを分かってほしいと訴えた。しかし相手のことを理解したり、認めあったりする事は出来ませんでした。あの原爆を造り投下した方と、被害にあった方、それぞれの言い分がありました。それぞれの立場にたてば、それは何となく理解も出来る、このように人は立場によって考え方も言う事も変わってくるのです。そういう中で、私たちは一体何を基準として生きて行ったら良いのでしょうか。?

 本日の箇所でパウロは神側の立場にたって歩む事が大切だと示しています。それはパウロが以前コリントを訪れた時に、パウロの訪問に反対する人達がいて、その人々によってパウロのコリント訪問が台無しにされてしまった経緯がありました。コリント教会ではパウロに対しても教会に対しても名誉と名声を傷つけられたとして、その人々に刑罰を加えました。さらにもっと重い刑罰を加えるべきだと主張する人々がいましたがパウロは「多数のものから受けた罰で十分です。」と言って必要以上の刑罰を与えることに反対しました。それは彼らも今は悔いている、なのにこれ以上の刑罰は害のみであって益にはならないとい、そんなことをしたらあの男を絶望に駆り立てるだけである。

 「その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。」そして「その人を愛するようにしてください。」と言った。パウロはキリストに仕えるものとして、自分の敵であった男を許すように訴えたのです。パウロな何故、自分を罵り、反抗し、傷つけた相手を赦そうとされたのか。パウロは自分も同じように神から赦され愛されている事を知っていたからです。私たちが隣人との関係で苦しんだとき、神を信じる者はどうすべきか模範を示されたのです。そしてパウロは私たちに世の基準で相手を裁くのではなく、常にキリストの愛の基準に生きることを教えているのです。まさに「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦して下さったように、あなたがたも同じようにしなさ。」と仰せられる通りです。コロサイ3:13

 キリストがご自身の血を流してまで全ての人を愛し赦された。私たちは自分の意に添わない人でも、神はこの人を愛されているんだという目で見て行かねばならないと思います。好きになれない、赦せない、自分のことを分かってくれない、しかし、その人たちにも神様がともにおられる事を忘れないで下さい。赦すこと、それは平和への道だと思います。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9