2005年8月7日

「教会の礎石」 ペトロの手紙第一 2:1〜8

 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

 「灯を消した方が良く見える」と言います。人は問題に対して他人の言うことや、道理という手近な明りで解決しようとしますが、むしろ心の明りを消し、心静め、主なる神に聞いた方が解決への近道となる場合があります。同じように教会の成長も信徒の熱心さや信仰深さといった「動」の部分にかかっていると思いがちです。なるほど、イエスさまは使徒ペトロの告白を良しとされ、彼のイエスさまに対する信仰の上に教会を建てると約束して下さいました。しかし、多くの場合「信仰」に隠された主の「恵み」の大きさ、慈しみの深さを忘れてしまうことがあります。パウロは「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」と信仰による救いとその結果である良い行いがクリスチャン生活の基本であることを語りました。

 キリストは、家を作る石工たちに捨てられた石、専門家たちが見逃してしまった親石とペトロは言いました。親石とは建物を建てるときの基準となる礎石のこと、信仰という建物を建てるために肝心要の親石を人々は棄て去ったと言うのです。それはイスラエルの人々に捨てられたキリストを暗示します。そこで、神は捨てられた親石、イエスさまを信じることで私たちを救うこととされました。「良い行い」をすること、「良い人になること」は神さまの祝福を受け、救われるための条件ではありません。むしろ、「救いは恵み」と信じ、感謝と共に生きるとき、「良い行い」が生まれ「良い人」に変えられていくと聖書は言っています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。(1コリント3:6)」とあるようにクリスチャンの信仰の成長も、教会の成長も神の恵みにかかっているのです。救いは神の恵みの信仰による、という教会の礎石が教会の成長を支えます。良い行い、熱心な働きは大切なものです。しかし、それよりも大切なものは地下の埋もれて見えない土台を見ること。この世の道理という明りを消し、心静め、主なる神の恵みの明りで物事を見渡すとき、本当の問題の解決の道、成長への道が与えられて行きます。