2005年7月24日

「偉大な人」 マルコによる福音書10:42〜45

 「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 イエスさまは、ヤコブとヨハネの願い、すなわちイエスさまがこの世の支配者となられた暁には右大臣、左大臣として勝ち組に入れさせていただくことについて意外な答えを与えられました。主の答えはいつも人の思いとは異なっていました。神の国に入るための条件も、律法を守り功徳を積むことではなく、主を信じ、全てを捨てて主に従うことと言われました。それは一見、救いの条件は自分の大切なものを失わなければならないことのように見えます。しかし、イエスさまは「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(10:29)と、主を信じることにおいて決して損をすることはないと約束してくださっているのです。目先のことで生きる私たちは、その先に備えられた約束のものを見ながら生きる力が弱いのだと思われます。

 河合隼雄著「こころの処方箋」に「己を殺して他人を殺す」という気づきについての随想があります。「己を殺して他人を生かす」のが筋ですが、人のために良かれと思って自分を抑えて人に仕えて生きるとき、その殺しきれない一部の心が再生し、気づかないうちに他人を殺していることがありはしないか。自分に死に切れないでせっかくの奉仕を台無しにしていないか考えさせられるところです。そこで、真に偉大な人とはイエスさまも言われる通り、仕える者であると言えます。語源は「その身柄が自分自身ではなく、他人に属している者」という意味です。偉大な人、仕える者とは、大きなことを成した人、賞賛すべきことをした人ではなく、自分自身と自分の行為が何処に属し根ざしているかをわきまえた者であるということです。

 佐藤彰師の「教会員こころえ帳」によれば奉仕者のこころえとは、「祈りによって働く」「主に対して働く」「他人の働きと比較しない」「へりくだって働く」「すべての栄光を神に返す」「自分の働きを忘れる」「どんな小さな働きでも心を込めて真心からする」「人のいやがるような働きを、進んで喜んでやる」「人と共同で、協調して働く」とあります。それらのことも自分の行いの所在が自分にあるならば、殺したはずの部分が生き返って奉仕を台無しにしてしまうかもしれません。使徒パウロは「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」(ローマ5:6)とイエスさまご自身、身の所在を神の側に置いて私たちに仕えて下さったことを証ししました。だからこそ私たちは、完璧になれないことを認め、その不完全さのために死に切れない多くの人の身代金として自分の命を十字架の上に献げてくださったイエスを仰ぎ見て生きていく必要があるのです。偉大な方イエスさまに学んで心から神に、人に、仕えていく人になりたいものです。