2005年7月17日

「人生の分かれ道」 エレミヤ書31:1〜6

 主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。(エレミヤ6:16)

 イスラエルの人々は神に選ばれ、その栄光を現すものとして遣わされた神の民でした。しかし、彼らはこの世に妥協し、神ではなく自分の力に頼る群れとなってしまいました。神は繰り返して神の声に聞き従うよう預言者たちを通して語られましたが彼らは聞く耳を持ちませんでした。そして、国の崩壊を招いたのでした。しかし、それからが神の救いの始まりでした。イスラエルが徹底的に打ちのめされ、立ち上がることのできない状況に陥った時、隠されていた主なる神のイスラエルに対するプランが動き始めたのです。

 先日、私は新潟地震の時、バプテスト連盟における被災地救援活動の中心的な働きを担った北関東連合の災害対策委員の方達の報告を聞きました。その報告から、いざという時の備えがいかに大切かということを学びました。それは、自分が被害を受けた時の備えのみならず、被害地周辺にあって助ける側となる場合の備えをも含みます。自分のためだけでなく、隣人のための備えが必要であるということです。地震だけでなく洪水、火山活動などによる災害にも目を向ける必要があります。日頃からの支援体制、支援資材の備蓄など具体的なノウハウの蓄積と皆の意識とが必要とされます。また、実際の救援活動の中で知らされたことの中に、宗教団体の非常時の被災地への対応が社会通念上の問題となることでした。いざという時、「信仰」がどのような実際的な実を結ぶかを地域の人々は見ているということです。

 「さまざまな道(わかれ道:口語訳)」に立って、と聖書は語ります。私たちが人生の中で行き詰まったり、苦難に直面した時、どの道を選ぶかは大切な問題となります。自分の辿ってきた経験の道、人が与えてくれる忠告の道、そして聖書が言う昔からの道、どの道を選ぶかは自由です。しかし、エレミヤを通して神は私たちに願われます。昔から変わらずイスラエルを導いて来られた神の恵みと慈しみの道、救いの約束の道を選ぶことを・・。

詩篇は語ります。「諸国の民よ、これを聞け。この世に住む者は皆、耳を傾けよ・・。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは、知恵ある者も死に無知な者、愚かな者と共に滅び財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていてもその土の底だけが彼らのとこしえの家。代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。」49:1-13 どのような生き方をしようと人間中心の行き方の行く末は「墓」であると言うのです。神を知り、神と共に歩むことの中にこそ人生の意味と目的があるのです。「昔からの道」それは、新しい道でもあります。行いによらず恵みによってもたらされる救いの道の源、キリストの道を現します。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6 )と言われるイエスさまの言葉は、私達を分かれ道に立たせます。しかし、その道を選ぶ者にはとこしえの道が用意されているのです。

 クリスチャンは毎週礼拝やさまざまな集会を守ります。いざという時の心の備え、魂の備えを毎週繰り返して行っていると言えます。その訓練は人生の危機を迎えた時の選択の力を与え、自分のみならず周辺の隣人の迫り来る危機への手助けともなると思います。限界を迎えた所で与えられる救いの道、神の恵みによる道が私たちにはどんな時にもあるのです。