2005年7月10日

「神は全てを益として下さる」 マルコによる福音書6:45〜52

 聖書が書かれた当時はキリスト者に対する迫害があり、そういう中で信仰を守っていくのは本当に大変だったと思います。そういう中で彼らは、イエス様が起こされた奇跡を思い起こしては勇気づけられたり慰められたりしたでしょう。30節から記されているパンの奇跡では「イエス様はパンを取り感謝の祈りをしてから、それを裂き座っている人々に分け与えられた、又、魚をも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。」その数5000人、当時は男性しか数えられませんでしたので、女性や子供を入れると倍の1万人以上に与えられたのではないか、そして全員が満腹したと記されております。またヨハネ福音書によれば、5つのパンと2匹の魚を差し出したのは子供であると記されおります。それを見ていた弟子のアンデレはイエス様に、「こんなに大勢の人では、このわずかなパンと魚は何の役にも立たないでしょう。」ヨハネ6:9 と言った。実際、人の目から見たら数千人の前で5つのパンと2匹の魚は何の役にも立たないものです。しかしイエス様はその僅かな物であっても感謝をし、それを生かして用いたのです。

 人間の目には、これが一体何になろうか、というような小さい物、そしてつまらない物であっても、イエスさまにとっては例えわずかな物でも全てが感謝なことなのです。同じようにイエス様にとって、私たち一人一人が愛すべき者なのであり、どんな人をも生かして、そして一人一人を用いて下さる方なのです。このパンと魚の奇跡は多くの人々や、特に弟子たちに更なる信仰の喜びに溢れさせた事と思います。ところがイエスは、弟子たちを強いて舟に乗せ湖を渡り、向こう岸のベトサイダまで行くように命じられました。しかし、あまりの逆風のために弟子たちがこぎ悩んでいたと記されております。彼らはもともと漁師ですから、天候一つで風がどちらから吹いて波がどう動くのか、湖のことは全て知っているはずです。その彼らの知恵や経験が今は何の役にも立たない、弟子たちは不安と恐れの中でもがいていたと思います。海というのは、聖書ではだいたい不安を意味していますが、イエス様は弟子たちを先ほどまでの奇跡の余韻が漂う中にあって、弟子たちを不安の世界へ追い出されたのです。パンの世界を見て感動した弟子達も、具体的なこの世の力の中に投げ込まれた時には、全く恐れとおののきしかなかった。

 私たちも礼拝で、或いは聖書を読んでいる時に、自分の心が高鳴り、イエスは主であると思って出かけて行く。しかし、お金や力が物を言う具体的な世界に飛び込んで行くと、イエスは主であるという事がサーツと消えてしまい、やはり、お金や力や地位がなければ駄目なのではないかという事になってしまう。そうなると、イエスは主であると自分に言い聞かせても、それが自分にとって少しも実体を伴って来ない、不安の中で弟子たちがイエス様を見て幽霊だと思ったとある。まさにその事であります。その時イエス様は「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」と言われた。恐れるのが人間であって、恐れるという事をそれほど恥じる必要はありません。ただ、そこで「わたしだ、恐れることはない」という方の声を聞く時、恐れは喜びに変わる事を今日の箇所は教えて下さっています。

 またイエスは業をされるとき、必ず私たちに何かを求められる方であります。例えば、カナの婚宴(ヨハネ2)のとき、水をぶどう酒に変えられたイエスは、水がめに水をいっぱい入れなさいと言われた。ラザロが死んだとき、「石をのけなさい」「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと言ったではないか」と言われた。これは私たちの信仰の鍵だと思う。私たちは水を入れないで、石をのけないで、神の栄光を見ようとする。しかし、水を入れ、石をのけることが信仰なのであります。