2005年6月26日

「お大切」 ヨハネ第一の手紙1:7−8

 フランシスコ・ザビエルが来日して以来、キリスト教の布教が始められ、その教えは急速に普及し、多くの大名までもがクリスチャンとなったことは有名なことです。昔も今も聖書の中心メッセージは「神は愛なり」という教えです。日本語の聖書翻訳が試みられ、いくつかの聖書箇所が翻訳されましたが、その中心メッセージを伝える聖書の箇所、第一ヨハネ4章8節を彼らは「デウスのお大切」と翻訳したと伝えられています。八百万の神を祭る日本において、創造主なる唯一の神の名をデウスと教え、当時「愛」という言葉が良い意味を持たなかったことから、「大切」な方であり、人間を大切な存在として下さっている方という意味で「お大切」と表現したそうです。

 そんな神が私たちに求めておられるのは、光の中を歩むこと。すなわち、光であるキリストとの関係の中に生きることでした。この交わりは、単なる人と人との交流ではなく、人生の深い部分をイエスさまと共に経験することです。イエスさまは約束されました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)」腹を割った心を通わす交流は簡単なようでいて難しいものです。私たちには、互いに深く関わり合うことに人間同士ゆえの恐れやまよい、疑いがあります。自分の失敗や心の傷、悩みや恐れ、不安な気持ちなどを正直に語ることができたらどんなにか心休まることでしょう。ところが、ヨハネは、「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」と、神を信じている人が、神と無関係に生きていることは闇の中を歩いているのと同じだと言うのです。それは、人との関係に於いても同じです。主にあって自分の罪と弱さとを認め、主の助けと援助を素直に受けることから他者との関係が生まれるとヨハネは言っているのだと思います。私たちが荘厳な礼拝を行い、礼儀正しい集会を行ない、整然とした奉仕や伝道活動を行なったとしても、互いに心の鎧兜をかむり仮面を着けて交流をしているとするなら、その交わりは死んでいるのです。

 「光の中を歩みなさい」とヨハネは勧めます。神の愛は私たちの罪の暗い部分をあばくためにあるのではなく、罪を覆うため、悔い改めに導くためにあるのです。聖書の言葉「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。(詩篇121:5)」、また「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。(箴言10:12)」は、神と神の愛とが憐れみに満ちたものであることを証ししています。

 神が求めておられるのは深い神の愛に私たちが生き、イエスさまが私たちの罪のために死んでくださったように、互いに同情と思いやりを持ち、苦労を分かち合って生きることです。そして、互いに愛し合うことによって世の救いがイエスさまの十字架に現された神の愛によってもたらされることを証ししていくことです。デウスのお大切は私たちに向けられています。