2005年6月19日

「命の活力」 マタイによる福音書11:28〜30

 当時のユダヤ人にとって「くびき」とは律法でありました。日々の生活が律法と照らし合わせて、しっかりと守られているかどうか、常に問われるのです。守らなければ、陰口を叩かれ、後ろ指を指され、罪人扱いをされたのです。そんな律法という「くびき」に多くの人々が疲れはてたのです。例えば、安息日を例に挙げますと、神様は一週間をかけてこの地球の全てをお造りになりました。6日間働かれ、最後の7日目に休まれたと聖書に記されていますが、やがてこの安息日が律法化され、安息日には休まなければならないということから、39ヶ条の禁止条項がつくられました。更に、その39の条項を守る為に234の行為が禁止されたのです。ですから安息日に病気をしたら大変です。何しろ癒し等も禁止されていたのです。聖書にイエス様が安息日に手のなえた人を癒して、あなたは掟を破ったとして律法を厳格に守っていた人々から中傷されている箇所がありますが、人の命より掟が大切と言う中で多くの人々が苦しんだのです。

 今の社会で法律が私たちの生活をがんじがらめにしている事はありません、法律の中で自由に生活が出来す。当時から比べたらまるで夢のような世界であると思います。私たちはその夢のような世界で毎日が平安で楽しく暮らしているはずですが、現実はどうでしょうか。?今まで住みやすい社会を造るために多くの人たちが努力を重ねてきました。あれがあれば便利だと言って、利便性を求め、豊かさを求めてきました。結果、本当に世の中は便利になり豊かにもなりました。しかし、物質的な豊かさを味わいながら、いつのまにか私たちの心には不安や恐れの種がどんどん蒔かれ、そこからたくさんの芽が出てきています。自分でも説明することの出来ない「むなしさ」や「さみしさ」、誰にも理解されない孤独感などの「思い煩い」という花を咲かせてしまっています。また、夫婦関係、親子関係、友達関係といった人間関係に疲れてしまったり、生きている目的が分からず人生に疲れてしまう。最後には不甲斐ない自分自身を責め疲れ果ててしまうのです。

 このように社会には私たちを疲れさす原因はたくさんあります。それが今、私たちの「くびき」となり重荷となるのです。そして私たちを絶望へと追いやっていくのです。この「くびき」の解放はあるのか、イエス様のもとで休ませて頂くというのは、新しい新鮮な命が与えられる事であります。 喉がからからのとき、冷たい水を飲むと「ああ、生き返った」という思いと同じです。イエス様のもとで休む事によって、そこに新しい望みが生まれてのです。「神様はこんな私でも愛して、そして生かして下さっている。さあ、またやるぞ、自分のような者でも、もう1回立ち上がれるのだ。」これが新しい命を頂くと言う事です。体の傷、痛みは病院で直してもらう事が出来ます。また疲れた体は休息すれば疲れを取る事が出来ます。心の疲れや重荷は病院に行って注射をしても治りません。心にかけられた「くびき」を軽いものにしなければ健康には向かわないのです。イエス様は仰せられた。もうこの世の「くびき」から解放されなさい、そして、わたしの「くびき」を負いなさい。そうすれば、あなたがたの重荷が軽くなると。何故ならば「私の「くびき」は負いやすく、私の荷は軽いから」と。私にあなたの重荷を全て委ねなさい、御言葉を聞いて生きなさい、そして私に従いなさい。その事についてはパウロも「私たちはキリストによって自由を得たのですから、奴隷のくびきに二度とつながれてはならない。」と言われている。ガラテヤ5章1節 キリストの「くびき」は私たちを縛り付けるものではなく、自由に解放してくださるのです。あなたの重荷をイエス様に委ねましょう。