2005年6月12日

「思い悩む…な。」 マタイ6:25〜34

 今年はバプテスマを受けてから20年、成人式を迎えた年でもあります。そこで、今日はバプテスマを受けた頃の「信仰の初心者」当時の証を通して、宣教メッセージを語らせていただきます。

 20年前に「教会に帰ろう」と思った時、実は心配したことが二つ有りました。一つは.きわめて肉の思いですが、「お酒をやめないといけないのか」という心配でした。が、入ってみて分かったことは、信仰の友との宴席程楽しいものは無いと云うことでした。もう一つは、キリスト者の迫害がまた起きた時、それに耐えられるだろうか?という少し誇大妄想的な心配です。現在の日本では全く考えられないことの様に思えますが、ほんの60年前には現実に有ったし、現在のクリスチャン人口は1%以下であることを考えると、これからも起こり得ないこととはいえません。江戸時代の踏み絵に示されるような信仰告白の場に立たされた時に、果たして信仰が守り通せるのだろうか?と云う心配です。が、それはその時の事と、心配する割には極めていい加減な楽観論で割り切りました。

 さてバプテスマを受けた頃から体調が悪くなり、中間管理職としてのストレスも加わって不整脈がひどくなりました。この不整脈が出ている時は、やはり極めて気持ちが不安になり、心臓の鼓動ばかりが聞こえてきて、さらに不安になるのです。信仰を持っても少しも体調は良くならないし、かえって悪くなるばかり、やはり信仰が浅いからかな、と云う思いでした。そんな不安の一つの解消方法が空を見ることでした。クリスチャンの書かれた詩集に「大いなるものましますことを忘れまい」という詩が有りました。これは苦しい時、悲しい時、行き詰まった時には空を見て、この世を作り見守っていてくださる大いなるものがましますことを思い出そう、と云うものでした。このような不安に襲われた時、工場の中を歩きながら、何度空を見上げ、大いなるものに思いを馳せたことでしょう。

 実は教会に行くようになって失ったものに、バード・ウオッチングがあります。それまでは教会まで家族を送り届けると、岐阜城のある金華山に出かけて鳥の声を聞きに行くことを楽しみにしていました。少し山を登ると鼓動が早くなり、不整脈が楽になるのも嬉しかったのです。工場にも季節折々に沢山鳥が飛んできます。また、昔から鳥のように空を飛んでいる夢を良く見ました。私自身も鳥となって、天のお父様に養っていてくださっていると云う気持がして、この聖書の箇所は実感を持って受け入れることが出来ました。

 バードウオッチングは基本的には午前中、それも朝早い時が良い訳でして、日曜日の朝しかない訳です。その貴重な時間を教会にいくために取られてしまった訳で、残念!だったか?というと、実はそうではなく、失ったものよりも得たものはもっともっと大きかったのです。教会での沢山の兄弟姉妹との交わり、壮年会あるいは中部連合さらには連盟の兄弟との交わりからは、沢山のことを教えて頂きました。会社の中での交わりだけでは絶対に得られないものでしょう。生まれ、育ち、職業、年齢それぞれが異なっており、社会の出来事をそれぞれに持ち寄り、身近に感じる事が出来ました。
 さて、私の不整脈は現在完全に治っています。信仰の薄かった当時の、あの苦しかった時の思い悩みが嘘の様です。信仰を得たからすぐに平安になるものではなく、時間はかかりましたが、治ってしまいました。バプテスマを受け20年経った今、やっと私はこの聖書の箇所を自分の言葉で持って取り継がせて頂けるようになりました。社会生活というものは、思い悩むことばかりです。思い悩まない人等居る訳が有りません。ただ、その悩みの種類及び深さは人によって違いが有るでしょう。でもイエス様は力強く「明日のことまで思い悩むな。その日の苦労は、その日だけで十分である」は何とも嬉しいみ言葉ではないでしょうか。本日読んで頂いた招詞は、父が亡くなった後に高知教会の姉妹から送られてきた絵葉書に有った箇所です。その絵葉書ではこう書かれていました。

 「心静かに私は行こう。神よ、あなたの平和の内に。」