2005年6月5日

「種を蒔き」 ホセア書10:12

 「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように。」

 人生思いもよらないことがあるものです。そのような時思うのが「どうして自分にこんなことが・・」ということです。そして、次に思うのが「何で自分ばかりがこんな目に・・」ということではないでしょうか?分裂してしまった北王国、イスラエルの預言者であったホセアは王国が滅亡するまでの間活躍したと言われています。しかし、彼の人生は苦渋に満ちたものでした。神より供えられた妻は一子をもうけた後、姦淫の妻となり二人の子を産みます。そして、神はその妻を愛せよと言われるのです。その出来事は、背信のイスラエルの象徴と理解されることもありますが、それはホセアがいかに不信仰に陥ったイスラエルに手を焼いたかを示していると思われます。当時、イスラエルはヤロブアム2世の時代、最高の繁栄を見せていました。しかし、神に祝福され恵まれるほどにイスラエルは不信仰に陥り、偶像礼拝に走ってしまうのです。ホセアは、何故頑迷な民のために自分ばかりがこんな役目を負わなければならないのかと思ったに違いありません。しかし、神がホセアに求められたことは、不信仰な民に「神のイスラエルに対する永遠の愛」を伝え続けることでした。

 身に覚えのないことで苦労することは、納得がいかないことです。正しく生きているのに貧乏くじを引くような目に会うことさえ私たちの人生では起り得るのです。そんな時に問われるのが私たちの信仰です。「天地神明にかけて」と人は誓いますが、追い詰められると簡単に捨ててしまうのが自分の力に頼った信仰です。神様ならどの神様でもいい、信じる者次第と言われるかもしれません。しかし人は、存在せず人の苦しみを聞くことさえできない神を信じても空しいことに気がつかなければなりません。イスラエルは大国アッシリア、エジプトの脅威から逃れるために主なる神に頼ることをせず、隣国に頼ろうとしました。しかし、そのことが国家崩壊へと繋がったのです。裏切られても捨てられても、永遠の愛を誓われたイスラエルの主なる神をイスラエルは信用しませんでした。それでも神は回復の知らせをホセアに託されるのです。クリスチャンの人生で大切なことは収穫(結果)ではなく、種を蒔き続けることです。第一にその種は「神の愛」の種、隣人を愛し隣人の苦しみを共有する種です。そして、「福音の種」キリストによる罪の救いをもたらす恵みの種です。苦しみの中にも神との語らい、関係を大切にし神を友としたダビデは歌いました。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。」(詩篇103:2) 本当の神との語らいの時、デボーション(聖書の言葉を噛みしめ、讃美と、願いと感謝の祈りをし、黙想によって神に聞く、献身・専心)の時を持ち続けることが、私たちの苦しみの時、人知を超えた神の力を受けるための恵みの知恵です。神の憐れみによって弱い私たちが神との語らいに身を献げることができるよう小さな祈りから始めてみましょう。きっと神が恵みの雨を注いでくださり、あなたとあなた周りの人たちとあなたの教会とを祝福して下さいます。

 自分で自分に自信が持てなくても、神様が私たちを必要とし、私たちを使ってくださるのだということを知るとき、私たちの生きる意味、目的というのがはっきりと見えてくるのです。

 『主がお入り用なのです』それはいつも私たち一人一人に向けて語られている愛の言葉なのです。