2005年5月29日

「神の必要」 マタイによる福音書21章1〜11節

 自分の存在そのものについて、一度は考えたことのある人は多いのではないでしょうか。自分はなぜ生きているんだろう?自分は何のために生まれてきたんだろう?何のために生きればいいんだろう?そんな悩みや疑問を持つ人もいます。世の中で自分は役に立っているんだろうか。誰かから必要とされているのだろうか。そんな思いにとらわれてしまうこともあると思います。

 人間には「必要とされたい」という感情が自然に備わっていると言われます。アブラハム・マズローという心理学者が唱えた有名な学説に「欲求の段階ピラミッド」というものがあります。生理的欲求が満たされ、安全の欲求が満たされ、親和の欲求(他人と関わりたいという欲求)が満たされると、次にくるのは自我の欲求だといいます。自分が価値のある存在だと認めてもらいたい、尊敬されたいという欲求です。そうなんです。人というのは常に誰かに必要とされたいと思っていて、そこに自分の生きていることの意味、意義を見い出そうとしているんです。

 しかしながら、今の社会の中では本当に自分は人から必要とされているんだと自信を持って言い切れる人は少ないのではないでしょうか。必要にされたいとは思っていても、自分ではそうだと思えない人も多いでしょう。そしてはじめの悩み、疑問に帰ってきてしまいます。「自分は何のために存在するんだろう?」

 イエス様は様々な場所で宣教をし、奇蹟を起こされましたが、いよいよ定められた十字架の場所エルサレムへと入って行く時、「子ろばに乗られた」と書かれています。マタイの福音書の記述によると、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて私のところに引いてきなさい」と言われました。弟子たちがろばと子ろばの二匹を引いてきたのですが、イエス様はあえて人を乗せたこともない弱い子ろばの方に乗られたのです。これはゼカリヤ書での預言の成就でしたが、それだけの意味ではないと思うのです。まだ人を乗せたことのない弱い子ろばです。普通の人の目から見れば、まだ使い物にならない、必要になっていない子ろばだったんです。しかし、イエス様はその子ろばを必要とされたのです。この時にイエス様が弟子たちに語られた言葉は、やはり私たち一人一人に語られている言葉だと思うのです。「誰かが何か言ったら『主がお入り用なのです』と言いなさい」イエス様はそう言われました。

 自分がなぜ生まれてきたのかを考えるとき、神様を知らない人は「偶然」だとしか答えられません。進化論を常識と考える今の科学教育の中では、人間ができたのも、あなたがこの世に生まれたのも、長い時の流れの中での単なる偶然にすぎないと教えるのです。言い方を変えれば、私たちは「わたし」として生まれてきたのではなく、たまたま生まれてきてから、その後の生き方で「わたし」になって行くのだと教えられるんです。しかし、神様を知るとき、それは全く正反対のことだということがわかるのです。偶然だとしか思えないようなことが、神様による必然だということに気付かされるのです。あなたが生まれたのは、神様があなたを必要とされたからなのです。無駄な命というのはありません。神様は必要なものしかお作りにならない方だからです。あなたが「あなた」として生まれたのは、神様があなたを必要とし、あなたを愛して作ってくださった、神様による必然なのです。だから命というものはすべて尊いのです。

 自分で自分に自信が持てなくても、神様が私たちを必要とし、私たちを使ってくださるのだということを知るとき、私たちの生きる意味、目的というのがはっきりと見えてくるのです。

 『主がお入り用なのです』それはいつも私たち一人一人に向けて語られている愛の言葉なのです。