2005年5月22日

「こだわり」 1コリント3章1節〜9節

 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

 人は、自分の人生の目標がはっきりしていないと、どうでもよい事にこだわり、時にはそれが生き甲斐になって生きてしまうことがあります。また、自分のこだわりが自分の個性や存在価値を表しているように錯覚することさえあります。衣食住、どの要素も人の生活には欠かせないものです。ある人は洋服やアクセサリーに価値観を見出し、高級で品質のいいものしか買わないという人がいます。また、ある人は食にこだわり、材料から料理、器にまで凝る人もいます。最近では建物や車、趣味、道具に至るまで信念とも言うべきこだわりを持つ人も増えています。健康にも気を遣い、定期検診や各種栄養サプリメントを摂り十分に自分の体に注意を払っておられる方も多いです。それらの事は本当に大事で、生き甲斐を与え、人生の充実感を与えてくれるものと言えます。しかし、残念なことにそれらのこだわりは、私たちの外なるものを満たせても内なる心を満たすことはできません。イエスは言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)

 また、人は自分の行動についてこだわりを持つことがあります。自分のやり方や手順にこだわり、人のやり方が気になってしまい、時には人を裁いたりしてしまうことがあります。人が自分の思い通りに動かないことに腹を立ててしまいます。逆に、自分のしていることを他人に知ってもらい認めてもらいたい欲求が私たちにはあります。イエスは言われました。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しが人目につかないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:3)人に見せるため、他人の評価を気にして生きる必要はないということです。たとえ一人もあなたの良い行いを見てくれている人がいなくても、父なる神はどんなに小さなことにも目を留めていてくださるのです。たとえこの世の記録にも世の人の記憶にも残らなくても、神の国に記録され、神が覚えていてくださるのです。

 生き方へのこだわりも的外れな人生を歩ませることがあります。人の敷いたレールには乗らない。自分の人生は自分で決める。それが自分の表現であり、自分の存在を証しすると私は思っていました。しかし、聖書の言葉と神の臨在とに目が開かれたとき、世界は自分中心に回っているのではなく、神がその中心におられることを知りました。自分と自分の人生とが神の大きな計画のために用いられることは何と素晴らしいことでしょう。栄えある舞台や競技、オーケストラの演奏に観客としてではなく、主役として立つこと以上のことです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」(ローマ11:36)こだわり自体に問題があるのではなく、それを何のために用いるかが大切でです。多くの人は自分の人生を何のために使ったらいいのか解らないで生きているのです。しかし、自分のこだわりを捨てて救い主なる神を心で信じて受け入れる時、私たちの人生の目的は明瞭となり生活そのものがシンプルになるのです。