2005年5月15日

「何処へ」 イザヤ書6章8節〜13節

 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

 人間には、いざという時の応答の仕方に二つの型があると言います。一つには反応型。この型の人は生の自分の感覚によって出来事に反応してしまう人だと言えます。これに対して、対応型の人があります。この型の人は、出来事に対し客観的な態度で臨む人だと言えるでしょう。たとえば不快な出来事があったとして、反応型の人は感情的に不快さをあらわにしその場から立ち去ってしまうかもしれません。しかし、対応型の人は状況を判断して、適切なその場での自分の役割に従って行動する人だと言えます。そう簡単に人を分類することはできませんが、いざという時の自分の応答の仕方で自分の傾向を知ることができます。

 明治の末、北海道旭川の塩狩峠で旧国鉄の列車の連結器がはずれ、客車が暴走を始めるという事故がありました。三浦綾子さん原作の小説「塩狩峠」で有名になりましたが、実在の国鉄職員であった長野政雄さんの捨て身の行動は究極的な対応型の人を物語っています。パニックに陥った乗客の中で彼は機敏な行動を取り、手動ブレーキをかけます。しかし、それでも下り坂を下り始めた客車は止まらず、彼はとっさに速度が増す前に車両を止めるためにわが身を線路上に投げ出し、体を犠牲にして乗客を事故から救ったのです。人はとっさの時、いざという時その人の本性が現れます。また、その人がいつも何を基準に、何を頼りとし、何を大切にして生きているかがあらわになります。長野さんは当時旭川教会の信徒で熱心で忠実な人で、神に従う人であったと多くの人が証言しています。彼の犠牲愛はとっさに身に付いたものだったのではなく、時間をかけて育まれた神との信頼関係によって培われたものだったと言うことができると思います。

 ウジヤ王の死去の後、ユダ王国の偉大な預言者となったイザヤは初めから立派で清い人ではなかったと思われます。幻の中で彼は神の聖なる方であることを知り、自身の汚れた者であることを告白しました。「わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」彼は神の清さに反応し、我とわが身とを恥じたのでした。しかし、神は幻の中で神の玉座を守るセラフィムのひとりをイザヤに送り、祭壇から取った炭火を彼の唇に触れさせ、彼の罪を赦し、清めたのです。するとその瞬間、イザヤは神の力と清めにより人間性そのものが変えられてしまいました。神の使いとして犠牲の多い、この世では見返りの少ない、損な役を彼は今、自ら買って出る人に変えられてしまったのです。物事に対応する客観的で使命感を持った人と変えられたとも言えます。

 本日はペンテコステ、聖霊降臨日、主の教会の誕生日と呼ばれています。人間の力による人間の集まりであった教会に聖霊が注がれ、罪ある者たちが清められ、神の目的のために対応していく教会となった日です。教会の群れは、神に清められたイザヤのように主イエスの犠牲の愛に触れ、清められ、新しい基準と永遠の目的に従って生きるものとなりました。その人々は自分達が何処に行くのか知っている人達であり、自分達がこの世では旅人であり寄留者であることをわきまえ、永遠の目的のために生きる者であることを知る者となりました。