2005年5月8日

「二つの救い」 使徒言行録16:25〜34
               
 さてパウロとシラスはフィリポの町で捕えられ、ローマの役人から鞭で打たれて、牢の一番奥に投げ込まれた。ステファノに続きヨハネの兄弟ヤコブまで殺された。そういう状況の中で捕えられたと言うことは、当然「死」を覚悟しなければならない。これから想像もつかない恐怖に怯えなければならない、だがそんな状況の中でパウロたちは真夜中に賛美のうたを歌い祈っていたのです。本来なら恐怖に怯え、不安と絶望に涙すつところでありますが彼らは違った。神への絶対的な信頼を疑わない信仰がパウロたちに勇気と希望を与えたのです。

 更に祈りの答えとして大地震が起こり、全ての囚人の鎖が外れた。見張りをしていた看守は囚人が全て逃げてしまったと思いその場で自決しようとした。(当時ローマの法律によれば囚人が逃亡した場合、看守は囚人が受けるはずの罰を全てその身におわねばならない。)しかしパウロの自害してはならない、との声に看守は自決を思いとどまった。パウロの声がまるで神の声に聞こえた。われに返った看守はこの神の業に恐れ、パウロに「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか、とすがった。」パウロは一言「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」看守と家族はこの御言葉を信じ、その証としてバプテスマを受けました。先ほどまで死の淵をさ迷い怯えていた看守が、今では食事をし笑って喜べるまで回復させた信仰とは何と素晴らしいのでしょう。 

 さて朝になりローマの高官たちはパウロを釈放しようと牢にやって来た。とても不思議なことにパウロは牢の中にいたのです。夜中に何故逃げなかったのか。なぜまた牢に戻って来たのか。? それはもはや何をもってしてもパウロを支配することは出来なかった。パウロの信仰が全ての恐怖を打ち負かしたのです。そこでパウロは役人たちにローマの市民権を持っていることを伝えた。それを聞いた役人はびっくりすると共に非常に恐れを抱いたのです。(当時ローマの市民権を持つということは法によって手厚く保護されていた。)なのに不当に扱ってしまった。それを聞いたローマの高官たちは自分が罰せられる事を恐れ、わざわざパウロの前に出向いて行き丁重にわびを入れたのです。

 今日の話の中には全く違った二つの救いが描かれております。一人は看守であります。高官たちに命令されたとは言え、無抵抗な者たちを鞭でうち横暴な態度で接していた。しかし牢獄の戸が開いたこの一連の出来事は神の業だと気づき恐れ、そして自分自身の罪を悔い改め「救われるためにはどうすべきでしょうか。」とパウロにすがって行く。もう一人はローマの高官です。パウロたちに鞭を打ち投獄せよとの命令を下せるほどの地位のある人物。しかしパウロたちがローマの市民権を持つ者と知り、高官という社会的地位、身分を失う事を恐れパウロに詫びていく。この二人は同じ罪を犯しているにも関わらず、一方は神に対する恐れから神に救いを求める。一方は社会に対する恐れから社会に救いを求める、この二つに分かれて行く。神に救いを求めるのか、世に救いを求めるのか、神は問われます。あなた方はどちらを選ぶのか?

 また聖書には次のように記されています。「私たちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリスト)のほか、人間には与えられていないのです。」使徒言行録4:12 更に信仰の素晴らしさはこの恵みは個人のみならず、私たちの愛する家族にまで、あなたを通して救いの御業が及ぶのです。まさに家族の救いの鍵はあなたにあるという事が言えると思います。あなたがたの救いはイエス様のみ、社会に救いを求めても本当の救いには預かることは出来ないのです。