2005年5月1日

「魂の記憶喪失」 申命記4:25〜31

 「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである。」

 神の選びの民イスラエルは、エジプトの囚われの身から神の導きにより故郷に帰る旅を続けていました。彼らに対する神の願いは、彼らが造り主なる神を知らない多くの人々の手本となり、救いの窓口となりることでした(4:5-8)。しかし、彼らは自分達の身分、使命、目的を忘れてしまっていました。彼らの悲惨さは、40年もの間荒野をさまよい続けたことでも、約束の地にその背信のゆえに多くの民が入ることができなかったことでもありませんでした。その悲惨とは、彼らが主なる神との約束を忘れて生きてしまったことでした。

 先週、JR福知山線で起こった大規模な事故は、私たちに日常の中に「死」が隣り合わせに存在することを知らしめました。鉄道事故だけでなく、地震や日常起るさまざまな思いもよらぬ出来事と隣り合わせに「死」は真近にあることを思わされます。私たちがその大事故の犠牲となった方々の死を無駄にせぬよう取り組まなければならないことは、事故原因の究明と公共交通機関の安全確立ということでしょう。そして、もう一つ大切なことがあります。それは、私たちの人生の終わりへの備えです。この世の生活は永遠ではありません。いつか終わりを告げる時がやって来ます。そして、私たちは普段それは遠い先のことのように考えてしまっています。しかし、それは突然やって来ることがあります。イスラエルの民にとって悲惨だったことは、彼らが彼らの存在理由を無くしてしまったことでした。私たちにとっての悲惨さとは、出来事そのものにあるのではなく、そこに神の存在と神の介入があることを知らないでいることです。リック・ウォーレン牧師著書「人生を導く5つの目的」では、冒頭、こう語ります。「人生はあなたが中心ではない。」「神がおられないなら、人生には何の意味もない。」理性を持った私たちに挑む言葉ではないでしょうか?自分探しの出発点を自分に置くならば、人生の目的も意味も見つかるはずはありません。しかし、神を中心に置くならばそこには生きる目的と意味とが存在することに気が付かされます。神の存在を認め、自分の人生の焦点を神に向けてこそ、どのような死にも意味があり、無駄な死は決してないことが解ります。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイ10:29)」すべての命は神の御手にあり、計画の中にあるということです。目的に生きる者にとって死は、たとえ突然であろうとも恐れることではありません。

 記憶喪失の特徴は、自分が誰で何処にいて何をしているのか分からなくなることです。そして、 魂の記憶喪失の特徴は、創造主を忘れ、自分の人生の目的と意味とを分からないまま生きることです。神はモーセを通して神の名を彼らの心に刻み込まれましたが、彼らは忘れてしまい、自分達の生きる目標を無くしてしまいました。あなたが神を信じ、その声に聞き従うなら、見捨てることも滅ぼすことも、約束を忘れることも無いと神は言われます。