2005年4月24日

「気を抜かないで」 使徒言行録12章6〜17節

 私たちは、自分自身のことだけでなく、自分以外の人のことをお祈りします。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい(ローマ12:15)」とパウロは語っています。常に祈りなさいと主はいわれますが、弱いもので祈れない時もあります。そのような時にも、祈ってくれている人がいるということは、どんなに私たちの慰めになり支えになるかわかりません。その祈りによって支えられ、また祈りつづける力が与えられます。

 ヘロデ王はペテロを捕まえて投獄します(使徒言行録12:3〜)。そのペテロを何とか救い出したいと、教会の人たちは熱心な祈りをしていました。その祈りが聴かれ、神さまは天使を遣わしペテロを牢獄から救い出します。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。(12:5)」と書かれています。

 教会は祈りによって成り立っています。教会の仲間というのは同じ趣味だとか、性格が良く似ているから集まっているのではありません。祈りの仲間なのです。性格が全く違っても、考え方が違っても、一緒に祈ることが出来ます。教会はお互いに祈りあうことが求められているのです。ある時、祈り会で家族の病気について分かち合い祈って頂きました。その時、小田牧師が「気を抜かないで祈りつづけましょう」といわれました。「気を抜かないで祈る」という言葉に祈る姿勢を強く感じさせられました。私自身、それほどまで熱心に祈っているだろうかと反省させられました。

 ペテロは牢獄から解放され友のところに戻ります。ペテロの友人たちは、ペテロの解放を熱心に祈っていました。殺されずにここに戻ってきてほしいと祈っていました。ちょうどそこに祈りが聞かれて解放されたペテロが戻ってきたのです。その家の女中が、門をたたくペテロの声に、確かにペテロが帰ってきたと驚いて、門を開けるのも忘れ、祈っていた人たちにペテロが帰ってきたことを伝えます。しかし熱心に祈っていた人たちは、「気が変になってしまったのか」と女中の言葉を信用しませんでした。熱心にペテロの解放を祈っていたのですが、その祈りが聴かれたときに、まさかとそれを信じることが出来ませんでした。熱心に祈っているようで、実際は熱心さが失われていたのかもしれません。私たちの教会でも、熱心に祈っているようで、どこかで現実的なことしか考えず、絶対祈りが聞かれるのだという神さまへの信頼が欠けていることがないでしょうか。私たちは完全な者ではありません。弱いものです。ですから、ペテロの解放を願っていた人々と同様、熱心に祈っていながらどこかで神さまを信頼しきっていないことがあるかもしれません。しかし、そのような祈りに対しても神さまは応えてくださり、ペテロを解放してくださいました。私たちの弱さにも関わらず、私たちの祈りに応えてくださっているということに深く慰められます。私たちが強い確信を持っているから祈りが聴かれるのではなく、神さまの側から必要なものを備えてくださり、私たちの祈りに耳をかたむけてくださっているのです。「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞きわたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。(詩編116:1,2)」とあります。どのような時でも、神さまは私たちに必要なものを与えてくださいます。その神さまを信頼して、「気を抜かないで」祈っていくものとなりたいと思います。