2005年4月17日

「生かされて」 テモテへの手紙2 2:1〜13

 若い伝道者テモテに向けてパウロの遺言とも言える書簡は、今を生きる私たちにも、私たちが生まれてきた意味と人生の目的とを与えてくれるような気がします。その意味と目的とは、私たちが神の愛を知ることとその愛に生きることです。それは、具体的には福音に生きることでもあると思うのです。テモテに委ねられた福音の働きへの招きはパウロという人間によるものではありません。それは、造り主なる神によります。パウロは言います。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。・・(1:9)」その源が神にある以上、その働きに苦しみが伴うことは必死だと思われます。しかし、この世で受ける報いを遥かに越えた報いがあることも確実なことです。そこで、その使命に向うテモテに向けてパウロは彼に必要な激励の言葉を慈しみ深い言葉をもって投げかけるのです。だから、「わたしの子よ」あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。その言葉はテモテ自身の意思の力によることを求めているのではなく、神の恵みの力という福音に秘められた力に寄り頼む信仰を求めています。

 この世ではお金で買えるものに目が向きがちですが、そうではないものも沢山あります。安眠、友情、内なる美しさ、愛など、目に見えないものはお金で買えません。そして、その中でも最も高価なものは命です。平安なる最後を迎える心はお金では買えません。また、

 何をもってしても買えないものは「永遠の命」です。その命を神は、イエス・キリストの命という代価を払って、信じる者に与えて下さいました。パウロがその命について現実的に語っています。2コリント5:1(現代語訳)「私たちが今持っているこの肉体が老化し、ダメになっても、神が下さる新しい体が天に用意されていることを、私たちは知っている。私たちは肉体を持って生きているが、実は天から与えられる新しい体のことを思って、うずうずしている。それを持てば、たとい肉体は朽ちても、霊だけでいることにはならないからである。確かに肉体を持ってこの世に生きている間は、いろいろな悩みや苦しみがある。そして、天から与えられる新しい体を持ちたいという願いで一杯である。それは、もう二度と死なない体である。私たちがこのようにすばらしい復活の霊的体を与えられるのは、神の恵みによるのであって、神はその保証として御霊を下さった。だから、私たちはいつも心強い。」死で終わることのない人生を知ることと、永遠の命が与えられる良き知らせを伝えて生きることは何と素晴らしいことでしょう。どんな場所でも、どんな仕事をしていても、誰であっても、本来の生きる目的と意味を持っている人は強いと思います。逆に、どんな素晴らしい人生を歩んでいても自分の本当の使命を知らないで生きている人は寂しいと思います。

 パウロがテモテに伝える真実は私たちにとっても真実です。すなわち、キリストと共に自我に死ぬなら、キリストと共に生き、耐え忍ぶならキリストと共に王座に着き、キリストの福音を信じ、誠実に生きるなら、たとえ失敗しても大丈夫。キリストは十字架の死を後悔せず、私たちを最後まで愛し切る覚悟を持っておられるのです。そして、神は私たちが自己満足で終わる人生を送ることを望んではおられず、勝利で終わり、永遠に続く命に生きることを望んでおられるのです。