2005年4月10日

「救いの香り」 2コリント2:14〜17

 「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」

 私の嗅覚は人と違っているようで、同じ匂いでも人と違って感じることがあります。たとえば、バラの香りは多くの人たちにとって良い香りなのだそうですが、私にとってはあまり好ましい香りだとは思えません。目には見えない香りが人により違った印象を与えると言うのも不思議なものです。使徒パウロは若いとき、キリストとキリストを信じる者たちとを忌み嫌っていました。キリストとキリストを信じる者を異臭だと感じていたのです。しかし、復活後のイエスさまに出会ったとき、彼は自分の間違いに気がつきました。すなわち、主イエスこそが神の子、救い主キリストであり、世の全ての人の罪のために十字架にかかり、死んで三日目の朝復活されるという聖書に預言された方であったことを悟ったのです。そのパウロが、クリスチャンのことを「キリストを知るという知識の香りを漂わせる」器だと言っているのです。そして、その香りは、滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りだと言うのです。しかも、たとえキリストを信じない者にとっても、クリスチャンは神に献げられる良い香りでもあると言い切るのです。

 旧約聖書の中で神に喜ばれる良い香りとして登場する最初の香りは、大洪水の時、箱舟から出てきたノアが祭壇を築いて献げた犠牲の供え物の香りでした。神は宥めの香りをかいで、御心に言われました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。」その香りは、人の罪への神の怒りを静める香り、宥めの香り、執り成しの香りでした。しかし、イエスさまが十字架において人類の罪の贖いの供え物となって下さった時より、神の喜ばれる香りは、いけにえという犠牲の献げ物よりも、キリストの内に示された「あわれみ」の心となりました。ペトロは言います。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」(2:21-24)人を裁く心や報復心、悔しい思いや憎む心を主のゆえに「あわれみ」として献げることを神は喜んでくださり、良い香りとして受けてくださると言うのです。憎しみや争いの絶えないこの世にあって暴力や報復の連鎖を終わらせ平和をもたらすために私たちに必要なことは、キリストの十字架の意味を知ることです。パウロは私たちに懇願します。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」エフェソ5:1,2