2005年4月3日

「なおも先へ」 ルカによる福音書24:28〜35

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:1-3 ) イエスさまの復活後、エルサレムでは墓に葬られたはずのイエスさまの遺体が消えてしまった話でもちきりでした。弟子たちでさえ、イエス復活の知らせをたわごとだと思っていたのです。そのような中、二人の弟子がエマオという村に向かっていました。「温かな泉」という名のエマオ村に二人が何のために向かったかは分かりませんが、イエスさまの受難後の沈んだ気分を変えるために温泉に行ったのかもしれません。その道すがら語り合う二人に、イエスさまが近づいてこられました。しかし、彼らの目が遮られていて、彼らはそれがイエスさまだと気がつかなかったのです。

 イエスさまは二人に聞きました「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」

 すると二人は暗い顔をしたと言います。無理もありません。救い主として、イスラエルの王と目されていた希望の星、イエスさまが十字架で死に、葬られ、しかもその遺体が無くなってしまったからです。弟子の一人クレオパは事の次第を目撃情報に従って順序立てて語り始めました。二人の弟子の関心ごとはもっぱらイエスさまのご遺体が無くなり、見えなくなった事とその理由の推理にありました。彼らの信仰は未だ目に見える事実に釘付けにされて、真実を見ることができないでいたのです。すると、イエスさまは彼らの心と目とを聖書の約束に向かうよう、聖書全体にわたり、イエスご自身について書かれていることを悟るように説明されました。イエスさまは度々弟子たちに向かってご自分が、「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」ことを語られました。しかし、弟子のペトロはそんな不吉なことを言うイエスさまをいさめ、逆にイエスさまから「サタンよ黙れ」と聖書の権威を認めないペトロを叱責されました。イエスさまの関心ごとは聖書の証言と約束でした。弟子達は聖書に書かれた言葉よりも自分達の体験や直面している問題しか見ることができなかったのです。しかし、宿でイエスさまがいつものように食事の席で、パンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったとき、二人の目は開かれ、それがイエスさまだと分かったのです。彼らの心の目を遮っていたものが取り払われ、真実を見出したのです。 暗い顔をしていた二人の弟子の心を燃やしたのは、聖書全体が語っている救いの約束です。イエスさまの福音です。イエスさまは、彼らに目に見える事実だけに囚われるのではなく、聖書の言葉の真実に目を向けるよう教えられたのだと思います。

 目指す村に近づいたとき、イエスさまはなおも先へ行こうとされている様子だったと福音書は語ります。イエスさまの目は救われるべき人々の魂に注がれており、その先にある人々の救いに向けられています。私たち救われた者も、そこに留まらず、その先にある多くの人々の救いのために進んで行きたいものだと思います。