2005年3月27日

「復活の主」 ヨハネ福音書20:1〜18

 イースターは、人類の歴史を覆す、大いなる神の勝利と喜びの日です。それは、この世のどんな喜びにも勝る、「死」からの解放の喜びを告げました。「イエスは復活されたのだ」と言うみ使いの言葉は、イエスの死と葬りを目の当たりにした人々にとっては大いなる戸惑いであり、喜びでした。イエスさまの亡骸を納めた墓にやって来たマリアもペトロたちもイエスさまの復活をにわかに信じることはできませんでした。できなかったばかりでなく、イエスは必ず死者の中から復活されるという聖書の言葉を忘れてしまっているのです。キリスト教の信仰は矛盾や不条理、不合理なところから始まります。理屈で納得して始める信仰ではありません。そこに神の救いのからくりが隠されているのです。パウロは言いました。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」1コリント1章、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」同15章、とさえ彼は語っています。

 「婦人よなぜ泣いているのか?」天使たちはマリアに聞きました。私の信じていた方が、私の希望だった方が、死んだばかりでなく、遺体さえなくなってしまったのです、そう言いたかったのでしょう。そして、後ろにおられたイエスさまは気づかぬマリアに聞かれたのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか?」しかし、それでもマリアはイエスさまだと気づかず墓地の管理人だと思い、遺体だけでも返して欲しいと願うのでした。イエスさまは彼女の名前を呼ばれました。誰が呼んだか解かる声で呼ばれたのです。人間の常識や理屈を超えた、生きているはずのない人の生きた声で呼ばれたのです。

 復活のイエスの呼びかけは第一に、私たちに罪の赦しを宣言します。ローマ8:34 「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」第二に私たちの復活を約束します。6:3-5「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」第三に、復活のイエスの呼びかけは、私たちに新しい命と目的を与えます。2コリ5:15 「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 聖書が預言し、イエス様が約束された「復活」の出来事が本当であったことを知った人々の喜びはいかばかりだったでしょうか?イエスの復活は聖書に書かれている全ての約束が実現することの保障なのです。マリアのように愛する者との別離に悲しんでいる人。人生の試練の中にある人、心に空しさを抱えた人、病の辛さに苦しむ人、そして全ての人のを罪から救うために主は復活されたのです。