2005年3月20日

「カルバリの丘より」ルカ福音書23:32〜38

 ゴルゴタ(されこうべ)の丘と呼ばれた処刑場を後のラテン語訳聖書ではカルバリの丘と呼びました。その丘は、神の愛が示された場所、世界を裁きの世界から赦しと恵みの世界に変えた偉大な場所となりました。神は昔から、いろいろな形で人間に対する愛を注いでこられました。しかし、御子イエスを遣わしてくださったことにより、神は神の究極の愛を私たちに示してくださいました。使徒パウロはローマ書5章にて、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と語りました。ペトロもまた、正しい方が正しくない者たちのために、神のもとへと導くためにキリストは苦しまれた、と言いました。

 人は案外自分のしていることを知らずに生きています。たとえば、私は幼いとき親の愛を受けそれが当たり前のように、その愛が忍耐と犠牲の愛であったことなど知りもせず成長しました。しかし、自分自身独立し家庭を持ち、生活の現場に立ったとき、生きていく事の大変さと受けてきた親の犠牲の愛とを知りました。また、罪についても私は鈍感でした。ヨハネ福音書8章には、姦通の現行犯で捕らえられた女がイエスの前に突き出されます。人々はイエスを訴える口実を得ようと試したのです。「こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で教えています。あなたはどう思うか?」しつこく問う彼らに対して、イエスは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい。」すると、年長者から始まって、一人また一人と立ち去り、そして誰もいなくなったと書かれています。他人のことはとやかく言える私です。そして、自己保身に走るのが私です。しかし、イエスさまは他人の私のために、訴えず、自己を捨てて犠牲の子羊として十字架の死に立ち向かって下さいました。十字架の上でイエスさまは言われました。「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人事だと思っていた主イエスの執り成しは、他の誰でもない、私のためであったことに今更ながら気が付かされます。そうです。私はイエスさまに出会うまで、自分が何をしているのか知らないで生きていました。

 イエスを十字架に架けた人々は、イエスの服をくじで分け合いました。イエスを王と呼んだ民衆は傍観し、議員たちもイエスをあざ笑いました。そして、兵士たちはイエスを侮辱し、「これはユダヤ人の王」という皮肉とも取れる罪状書きをイエスの頭上に掲げました。誰も自分が何をしているのか知りませんでした。しかし、一人だけそこでイエスさまを罪なきものと、救い主と告白した人がいました。それは、一緒に十字架に架けられた内の一人の罪人でした。彼だけが、自分が何をしてきたのか、何をしているのかを自覚していたのです。イエスさまは彼に言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 イエスさまの十字架が打ち立てられたカルバリの丘、そこは主を信じる者には赦しの場、罪の贖いの丘です。この丘からイエスさまの十字架による永遠の赦し、完全なる赦しが私たち全ての人類に及び、そしてあなたにも及んでいるのです。